インド中央部、デカン高原を中心として、1674年シバージーによって創始されたヒンドゥー王朝。17世紀前半のデカン地方には、いわゆるデカン・ムスリム諸王朝が割拠していたが、在地には主として郷主(デーシュムクDeshmukh)とよばれる人々を中心とする土豪的勢力が成長していた。ビジャープールのアーディル・シャーヒー王国の有力な武将であったシャーハジーの次男に生まれたシバージーは、1840年代から、父の封地のあったプーナ(現、プネー)地方を拠点として、これらの在地豪族層を組織し、アーディル・シャーヒー王国と敵対し始めた。プーナ周辺には「十二谷地方」(バーラー・マーワル)とよばれる山岳地帯があり、シバージーはここを本拠として山岳ゲリラ戦を行いながら勢力をしだいに拡大していった。当時、北からのムガル帝国による圧迫にも苦しんでいたビジャープール王国は、シバージーの活動を抑えるだけの実力をもっていなかった。こうしてスワラージャとよばれる本領を確立したシバージーは、1674年ラーイガルの山城でヒンドゥーの作法にのっとって即位の灌頂(かんちょう)を挙行し、マラータ王国を建国した。1680年シバージーが死ぬと、ムガル帝国の圧迫がさらに強まり、その子サンブージーSambhaji(1657―1689)は1689年ムガル軍に捕らえられて処刑された。その後サンブージーの弟ラージャラームが第3代王(在位1689~1700)となり、ムガルの攻撃を逃れてはるか南方のジンジに移って抵抗を続けた。1699年ごろになると、マラータの在地勢力はムガルを押し返し始め、ラージャラーム王もサーターラ城に戻って、マラータ勢力は回復した。
1707年ムガル帝国第6代皇帝アウランゼーブが死ぬと、ムガルはデカン地方から軍を返すことに決定し、それまでムガル宮廷で育てられていたサンブージーの息子シャーフーShahu Bhonsele(1682―1749)を放免した。そのため、ラージャラームの息子シバージー2世を支持する勢力と、シャーフーを支持する勢力とに分かれて抗争が起こったが、結局シャーフーをマラータ王とすることとなり、シバージー2世はコルハプールの分国を与えられた。シャーフーがデカン地方の状況に疎かったこともあって、政治の実権はその宰相バーラージー・ビシュワナートが掌握することとなり、その後この家系が宰相(ペーシュワー)位を世襲するようになった。とくにシャーフー王の死(1749)後は、マラータ王は完全に名目的存在と化し、むしろ宰相によってサーターラに幽閉されているというほうがよい状態となった。こうしてマラータ勢力の中心はプーナの宰相府に完全に移ったのである、それに伴いマラータ勢力の内実は、宰相府を中心としてマラータ諸侯が連合体を形成するという形をとるようになった。こうしてマラータ王国は、なし崩し的な形でマラータ同盟へと変質していった。
[小谷汪之]
『小谷汪之他著『世界の歴史 24 変貌のインド亜大陸』(1978・講談社)』
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