ラホール(その他表記)Lahore

翻訳|Lahore

デジタル大辞泉 「ラホール」の意味・読み・例文・類語

ラホール(Lahore)

パキスタン北東部の商業都市パンジャブ州の州都。ムガル帝国時代に繁栄し、大規模なイスラム寺院バードシャーヒーモスクが残るほか、ラホール城シャーラマール庭園世界遺産文化遺産)に登録された。人口、行政区694万(2009)。

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共同通信ニュース用語解説 「ラホール」の解説

ラホール

インド国境に近いパキスタン第2の都市で人口約874万人。穀倉地帯のパンジャブ州に位置する。ムガール帝国時代の歴史的建造物が多くある。シャリフ首相の出身地。パキスタンの人口の約95%はイスラム教で、キリスト教徒は約2%。ラホールにはキリスト教徒の地区があり、イスラム過激派などからたびたび攻撃を受けている。(イスラマバード共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ラホール」の意味・読み・例文・類語

ラホール

  1. ( Lahore ) パキスタン北東部、インド国境に近いパンジャブ地方の中心都市。一六、七世紀ムガール帝国の首都となった。バードシャヒーモスクシャリマール庭園などが残る。

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改訂新版 世界大百科事典 「ラホール」の意味・わかりやすい解説

ラホール
Lahore

パキスタン北東端,パンジャーブ州の州都。人口514万(1998)。パンジャーブ五河の一つラービー川南岸近くに位置する。《ラーマーヤナ》の英雄ラーマの息子ラバにより建設され,地名は彼にちなむラーハーバールに由来するという伝承がある。しかし史料に最初に現れるのは,1021年にガズナ朝マフムードがここを奪取したときである。彼に仕えて征服に同行した科学者ビールーニーは〈イラーバ東岸のラウハバールの都〉と記している。以後,12世紀末のハルジー朝から16世紀初めのローディー朝までのデリー・サルタナット諸王朝のパンジャーブにおける根拠地となったが,1301年にはモンゴルの,また98年にはティムールの侵入により破壊され,この間は停滞した。しかし1524年に,のちにムガル帝国を興すバーブルの支配下にはいって以来,同帝国下で18世紀初めまで繁栄した。第3代皇帝アクバルは1584-98年に,また第4代皇帝ジャハーンギールは1622-27年にラホールに宮廷を置いた。すでに16世紀中期には,囲壁と濠に囲まれ12の市門をもつ旧市ができ上がっていた。旧市北西方のラービー川対岸にはジャハーンギール帝の壮麗な墓廟が残り,また東方に残るシャリマール庭園は第5代皇帝シャー・ジャハーンにより建造されたイスラムの天国のイメージを具現する泉水庭園である。第6代皇帝アウラングゼーブも王宮西に世界有数の規模をもつバードシャーヒー・モスクを建立した。しかし同帝の死後,帝国の衰退とともにラホールも繁栄を失っていった。1767年にはパンジャーブを根拠地とするシク王国の首都となったが,シク戦争(1845-46,48-49)における敗北によりイギリスに占領された。以後,英領パンジャーブの中心として,旧市南方に諸官庁,大学,博物館などの公共建造物と高級住宅地をもつ緑多い新市が,またその東方には広大な軍事駐屯地が19世紀後半に建設された。1947年のインド・パキスタン分離独立にあたってはパキスタン領に編入され,55年に西パキスタン州の,70年には新設されたパンジャーブ州の州都となった。

 今日では,囲壁と濠は撤去,埋め立てられ円周道路となっているが,旧市の北西端にはムガル帝国時代の王宮バードシャーヒー・モスク,シク帝国の英主ランジート・シングの墓廟が残り,その南の市中には迷路状に諸バザールが連なる。なかでも旧市南部を東西に走るアナールカリー道路の大バザールは,ムガル以来の伝統をもつ目抜き通りである。独立後,新市と軍事駐屯地の周辺にも都市化が進んだ。新しい工業団地も生まれており,ラホールには金属,機械,繊維,ゴム,電気,化学,鉄道,車両などの工業が立地する。金銀細工,絹製品,革製品などの伝統工芸も名高い。周辺には灌漑用水路の整備された沃野が広がり,そこからの小麦,米,綿花,サトウキビ,油料作物などを集散・加工する。
執筆者:

ラホール中央博物館は1894年に開館されたパキスタン最古の博物館で,細密画,貨幣,民族資料などにもみるべきものがあるが,ことにガンダーラ美術のコレクションが充実していて,シクリ出土の釈迦苦行像や仏伝図浮彫で飾られた奉献塔のほか,ガンダーラ各地出土の多くの優品を含んでいる。またラホール城博物館はムガル時代の細密画,貨幣,文書,武具のほかシク教美術の遺品も収めている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラホール」の意味・わかりやすい解説

ラホール
らほーる
Lahore

パキスタン北東部、インドとの国境にある古都。パンジャーブ州の州都で、パキスタンの学術、文化の中心地である。人口506万3499(1998)、1112万6285(2017センサス)。起源は伝承では『ラーマーヤナ』にまでさかのぼるが、都市として発達し始めるのは1021年にガズナ朝のマフムードがこの地を占領してからである。以後、諸王朝のパンジャーブ地方支配の拠点となり、とりわけムガル帝国の下で繁栄し、1566年ごろには、周濠(しゅうごう)を備えた高さ9メートルの市壁に囲まれ、12の市門をもつ都市となった。現在の旧市は当時のおもかげを残し、旧市の北端にある王城は、ムガル帝国のアクバル、ジャハーンギール、シャー・ジャハーンの3代の皇帝により建設された壮麗な宮殿をもつ。王城の西にはアウランゼーブ帝時代につくられた世界有数の規模をもつバードシャーヒ・モスクがある。ムガル帝国の衰退後は、ここを首都としてシク王国が興ったが、1849年の敗戦によりイギリス領となった。イギリス領時代には、旧市の南方に州庁、大学などのインド・サラセン様式の公共建造物が建ち並ぶ新市や、東方には広大な兵営地区が建設された。独立後は新市と兵営地区の周辺に住宅地が広がり、工業団地も計画的につくられ、繊維、電気、化学、機械などの諸工業が立地している。1940年にはパキスタン建国の礎(いしずえ)となったラホール決議を採択したインド・ムスリム連盟大会が開かれ、それを記念して王城北方のイクバル公園には「パキスタンの光塔」が建設されている。

[応地利明]

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百科事典マイペディア 「ラホール」の意味・わかりやすい解説

ラホール

パキスタン北東部の都市。インダス川支流のラービー川河畔に位置し,パキスタン最大の文化・学術都市。インドへの交通の要地で,商業の中心。映画産業が盛ん。11―12世紀ガズナ朝,ゴール朝の主都。1524年以降ムガル帝国時代に発展。18世紀末シク王国の主都となったがシク戦争後の1849年英領。ジャハーンギール宮,シャリマール庭園,モスク,古城などムガル朝時代の建築物が多い。大学(1882年創立),博物館,原子力研究所などがある。城塞とシャリマール庭園は1981年世界文化遺産に登録された。797万8000人(2012)。
→関連項目パンジャーブ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラホール」の解説

ラホール
Lahore

パキスタン,パンジャーブ州の州都。アフガニスタンから北インド中央部への交通の要地にあたり,ガズナ朝ゴール朝,モンゴルなど西北方からの侵入者の占領下に置かれることが多かった。ムガル帝国アクバルジャハーンギールシャー・ジャハーンらはこの町を好み,多くの建造物を残した。18世紀からはシク教徒の政治的中心地となったが,1849年,シク戦争の結果,イギリスに併合された。1929年には国民会議派の年次大会が開かれている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラホール」の意味・わかりやすい解説

ラホール
Lahore

パキスタン北東部,パンジャブ州の州都。同国第2の都市。インド国境から 12km,ラビ川東岸に位置する。1~2世紀頃に建設されたといわれるが,西南アジアとインドを結ぶ交通路の要衝として,北インド,アフガニスタンの諸勢力の争奪が繰返された。ムガル帝国時代には,皇族の居所となって最盛期を迎え,多数の壮麗な建造物で飾られた。シク王国領時代には,その王都となり,イギリス領となってからはパンジャブ州の州都。独立後 1955~59年には首都。同国鉄道網の要地で,国際空港もあり,商業,金融の一大中心となっている。また綿紡績を中心に製鉄,製鋼,製靴,ゴムなどの工業がある。伝統的な金銀細工でも知られる。同国で最古,最大のパンジャブ大学 (1882) があるほか,中等・高等教育機関が集中。ラホール博物館 (1894) もある。インド,カシミールに近いことから,同国最大の軍事基地がおかれている。人口 295万 2689 (1981) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラホール」の解説

ラホール
Lahore

パキスタン北東部,パンジャーブ地方の中心都市
7世紀初めの玄奘 (げんじよう) の記録にもみえるが,ムガル帝国の諸帝によって最も栄えた。特にシャー=ジャハーンは郊外に大庭園を造り,アウラングゼーブはイスラームの大礼拝堂を建てた。また1929年にネルーの指導下でインド国民会議派の大会が開かれ,ガンディーによって“プールナ−スワラージ(完全独立)”が唱えられた。

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