シャイバーニー朝
しゃいばーにーちょう
Shaybānī
ウズベク人が16世紀に、サマルカンドあるいはブハラを首都として建設した国家(1500~99)。チンギス・ハンの子ジュチの第5子シャイバンを始祖とするためにこの名でよばれる。ウズベク人は、アブール・ハイル・ハン(1412―68)のときに、キプチャク草原において統一を果たしたが、その孫のシャイバーニー・ハン(1451―1510)は、サマルカンド(1500)、ヘラート(1507)を占領し、ティームール朝にかわって、西トルキスタンからホラサーンを支配する国家を打ち立てた。王朝の黄金期は、アブドゥラー・ハン(1533/34―1598)の時代で、彼は国内の対抗勢力を討ってハン権力を強化し、外征によって領土を拡大する一方、貨幣制度を整え、公共事業をおこすなど内政の充実に努めた。しかし、彼の死後国家は崩壊し、ジャーン朝(1599~1785)にかわられた。
[堀川 徹]
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シャイバーニー朝
シャイバーニーちょう
Shaibānī
16世紀にウズベク族が中央アジアに樹立した王朝。 15世紀,キプチャク・ハン国の崩壊後シャイバーン家のアブル・ハイル・ハン (1429~68) がウズベク族を率いてチムール朝を攻め,ホレズムを奪い,その後,孫のムハンマド・シャイバーニー (在位 1500~10) がブハラ,サマルカンドを攻めチムール朝を滅ぼし,西トルキスタンにウズベク族のシャイバーニー朝を創建した。ブハラを占領した第 10代のアブドゥッラー2世 (在位 83~98) の時代が全盛期で,その領土はシルダリアの北やホラーサーンにまで広がった。この王朝は 1599年まで西トルキスタンを支配した。首都はサマルカンド。シャイバーニー朝の滅亡後,ブハラ・ハン国が興った。
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世界大百科事典 第2版
「シャイバーニー朝」の意味・わかりやすい解説
シャイバーニーちょう【シャイバーニー朝 Shaybānī】
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世界大百科事典内のシャイバーニー朝の言及
【ブハラ・ハーン国】より
…ウズベク族が中央アジアに建設したスンナ派イスラム国家。シャイバーニー朝(1500‐99),ジャーンJān朝(アストラハン朝ともいう。1599‐1785),マンギットMangit朝(1753‐1920。…
※「シャイバーニー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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