ドイツ陸軍元帥で伯爵。ベルリン生れ。1891年から1905年までドイツ陸軍参謀総長を務める。この期間,東西2強国,ロシア,フランスを敵とする二正面作戦の研究に専念,モルトケ時代の東攻西守の構想を改め,動員と同時に対フランス作戦を開始,短期間にフランスを打倒,のちロシアに向かう構想にした。このため,ベルギー,ルクセンブルクの中立を無視し,この正面から大兵力を北フランスに進攻させ,フランス軍を北翼から包囲,大殲滅(せんめつ)戦を遂行するよう計画した。これはシュリーフェン・プランと呼ばれ,1905年に公表された。第1次大戦において,後継者によりこれを薄めたかたちで遂行され失敗したが,戦後,計画どおり実行していればドイツに短期決勝の機があったとの評価が残った。
執筆者:前原 透
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1833~1913
ドイツの軍人。プロイセン‐オーストリア戦争,プロイセン‐フランス戦争に従軍。1888年陸軍参謀次長,91年ヴァルダーゼーのあとを継いで同総長(在任1891~1905)となり,いわゆるシュリーフェン・プランを立案した。
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【概史】
古代からの軍事戦略にも見るべきものが多いが,近代的な戦略の研究が行われたのは18世紀以降である。戦略論の創始者として著名な人物に,19世紀初期から末期にかけて,ドイツのK.P.G.クラウゼウィツ,スイス人のA.H.ジョミニ,アメリカのA.T.マハン,ドイツのH.G.vonモルトケ,A.vonシュリーフェンらがあげられる。これらの人々は,戦争が武力のみで行われるものでないことは基本理念として当然持っていたが,当時の情勢から,武力戦の戦争における地位を重視して,軍事面を主として論述している。…
…8月23日日本も日英同盟を名目にして参戦した。
【戦争の進展と国際政治の変動】
[シュリーフェン計画とその挫折]
ドイツの地理的位置は東西の強国ロシアとフランスに挟まれているから,二正面戦争の危険にさらされていた。そこで1891年から1906年まで参謀総長の職にあったA.G.vonシュリーフェンは,開戦の場合,まずフランス軍に向かって迅速に行動して主力軍を壊滅させたあと直ちにロシア軍に当たり,しかもほぼ6週間の短期間に決戦を完了して一挙に勝敗を決するという作戦構想を立てていた。…
※「シュリーフェン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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