シュレーゲル(読み)しゅれーげる

デジタル大辞泉 「シュレーゲル」の意味・読み・例文・類語

シュレーゲル(Schlegel)

(August Wilhelm von~)[1767~1845]ドイツ批評家の兄。弟らと「アテネーウム」誌を刊行、ロマン主義理論の基礎を築いた。シェークスピアの翻訳でも活躍。著「劇芸術および文学関係講演集」。
(Friedrich von~)[1772~1829]ドイツの批評家・哲学者・言語学者。の弟。初期ロマン主義の理論的指導者。また、サンスクリットの比較言語学的研究でも知られる。論文「インド人の言語と知恵」、小説「ルチンデ」。

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精選版 日本国語大辞典 「シュレーゲル」の意味・読み・例文・類語

シュレーゲル

  1. [ 一 ] ( August Wilhelm von Schlegel アウグスト=ウィルヘルム=フォン━ ) ドイツの評論家。弟フリードリヒと共にロマン派機関誌「アテネーウム」を創刊、またシェークスピアを翻訳するなど、ドイツ前期ロマン派文学運動の中心をなした。主著「劇芸術および文学に関する講話」。(一七六七‐一八四五
  2. [ 二 ] ( Friedrich von Schlegel フリードリヒ=フォン━ ) ドイツの哲学者、評論家。ウィルヘルムの弟。前期ロマン派解散後、サンスクリットを研究、「インド人の言語と知恵について」を著わし、ヨーロッパにおける東洋学の基礎を確立。晩年には独自のキリスト教的実存哲学を展開。(一七七二‐一八二九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュレーゲル」の意味・わかりやすい解説

シュレーゲル(兄弟)
しゅれーげる

兄ウィルヘルムAugust Wilhelm von Schlegel(1767―1845)、弟フリードリヒFriedrich von Schlegel(1772―1829)ともにドイツ初期ロマン派を代表する文学者。ハノーバーの由緒ある牧師の家に生まれる。兄ウィルヘルムはゲッティンゲン大学で神学、古典文献学を学ぶかたわら、詩人ビュルガーに師事し、早くから文才を発揮、1794年、シラー主宰の『詩神年鑑』および『ホーレン』誌や、『一般文学新聞』などに寄稿。有名なシェークスピアの翻訳もこのころに始まる。一方、弟フリードリヒは16歳で商家の徒弟となったが、半年後勉学を志し、ゲッティンゲンライプツィヒの大学で法律、古典文献学を修め、哲学や近代文学にも親しんだ。98年、兄と初期ロマン派の機関誌『アテネーウム』を創刊、ノバーリス、ティークなどとともに、宇宙の無限の充溢(じゅういつ)と全き統一への愛と憧憬(しょうけい)のポエジーとしてのロマン主義文学を鼓吹した。未完の小説『ルチンデ』(1799)はその実践である。

 1800年、機関誌の廃刊によりグループも解体。ウィルヘルムはまずベルリンで文学に関する重要な講義(1801~04)を行ったのち、スタール夫人に同伴してヨーロッパ諸国を歴訪、08年にはウィーンで演劇について講義、ドイツ・ロマン主義の伝播(でんぱ)に大いに貢献。19年以後はボン大学の文学の教授を務めた。

 フリードリヒは1801年からパリでサンスクリット語の学習と、中世精神の理解に努め、観念論からキリスト教哲学への道をたどり、文芸誌『ヨーロッパ』の刊行(1803~05)後、ケルンで妻ドロテーアとカトリックに改宗(1808)、ウィーンに移住。以後20年有余、当初しばらくオーストリア政府の官職についたほかは、文学(1812)、哲学(1827)、歴史(1828)、言語(1828~29)の講義、雑誌『ドイチェス・ムゼウム』(1812~13)と『コンコルディア』(1820~23)の刊行などにより、時代の精神的更新に尽くした。なお、豊かな受容の才に恵まれたウィルヘルムが同時代の重要な証人であるのに対し、独創的な思索力に富むフリードリヒは、文芸理論家としてのみならず、カトリック的実存主義思想の先駆として、現代にも大きな意義を有する。

[富田武正]

『A・W・シュレーゲル著、戸室博訳「劇芸術・文学に関する講義1~5」(早稲田大学独文研究室編『Studium』所収・1969)』『A・W・シュレーゲル著、登張正実訳「ゲーテの〈ヘルマンとドロテア〉」(『世界批評大系1』所収・1974・筑摩書房)』『F・シュレーゲル著、江沢譲治訳『ルチンデ』(春陽文庫)』『F・シュレーゲル著、飯田安訳『ロマン的人間』(1936・第一書房)』『F・シュレーゲル著、野田倬訳『ロマン主義文学論』(1972・学芸書林)』

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改訂新版 世界大百科事典 「シュレーゲル」の意味・わかりやすい解説

シュレーゲル
Friedrich Schlegel
生没年:1772-1829

ドイツ・ロマン派の創始者。ハノーファーに生まれる。卓越した文芸批評家,文学史家,哲学者であり,その批評の方法論によって近代の解釈学の始祖ともいわれる。古典文学の研究から出発し,ドレスデン大学在学中(1794-96)ギリシア文学に関する一連の論文を書く。ギリシア文学の客観性・自然性を文学の規範とし,主観的・悟性的な近代文学に対置したが,しだいに近代文学に内在する哲学的精神に注目,近代の悟性的思惟の成果であるフィヒテの観念論,スピノザ哲学における神に対する知的愛などを根拠にして,ロマン主義文学論を構築。その間,ノバーリスと知り合い,共にフィヒテ研究に関する思索を交換し合う。自我の反省を無限にくり返しつつ,〈根源的自我〉〈無限なるもの〉〈宇宙〉〈神〉に接近してゆく精神の運動を表現するものこそ,ロマン主義文学にほかならなかった。〈自己否定と自己創造の絶えざる交替〉(ロマン主義的イロニー)を通じて,詩人は自我の限界を超克し〈無限なるもの〉を象徴的に表現する。ポエジーに対するこのようなイロニーの介入は,現代文学,たとえばトーマス・マンやムージルらの表現方法にも影響を与えている。兄アウグスト・ウィルヘルム・シュレーゲルと共に編集・発行したロマン派の機関誌《アテネーウム》に掲載した彼の評論,断章,論文は,ロマン主義文学理論の包括的な表出であり,小説《ルチンデLucinde》(1799)はその実験的な試みであった。《ルチンデ》は既存の小説(ロマン)形式を解体させるアラベスク的様式によって,現代のアンチ・ロマンの先駆的作品となった。シュライエルマハー,ノバーリス,ティーク,シェリングらと共に形成したベルリンおよびイェーナにおける初期ロマン派が解散した(1801)後,パリに滞在し,サンスクリットの研究を通じてヨーロッパにおける東洋学の基礎を築き,続くケルン時代(1804-08),彼は既存のあらゆる哲学体系を徹底的に批評し,人間の内体験全体から出発する独自の哲学を志した。知識と信仰の統一をめざすこの時期のシュレーゲルの思索には,すでに晩年の〈生命の哲学〉の萌芽がみられる。1808年妻ドロテーアと共にカトリックに改宗,ウィーンに移り,メッテルニヒのもとで政治に関与する一方,哲学,神学,文学の領域で精力的に活躍した。意識の深部から生の実体を把握しようとする彼の晩年のキリスト教的実存哲学は,19世紀,20世紀の実存哲学に隠然たる影響を与えた。
執筆者:


シュレーゲル
Johann Elias Schlegel
生没年:1719-49

ドイツの劇作家。今日では忘れ去られているが,その作品は,1740年代から70年代にかけては,ドイツの劇場の代表的なレパートリーであった。代表作は,デンマーク王クヌット(カヌート)と野心家ウルフォの対立を描いた悲劇《カヌートCanut》(1746)である。思想的には啓蒙主義を基盤にしながら,ゴットシェートとは違って演劇の娯楽性を強調し,ドイツ独自の新しい演劇の確立を主張した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュレーゲル」の意味・わかりやすい解説

シュレーゲル
Schlegel, Friedrich von

[生]1772.3.10. ハノーバー
[没]1829.1.12. ドレスデン
ドイツの文学史家,詩人,批評家,哲学者。 A.W.フォン・シュレーゲルの弟で,ともにロマン主義芸術運動の指導者。ゲッティンゲン,ライプチヒで法律,哲学,古典語学を学んだ。最初,ギリシア・ローマの古典文学,ゲーテを研究し,古典主義の立場から出発したが,のちシラーとの離反,フィヒテの哲学の影響,ベルリン,イェナでの芸術家,女流文学者たちとの交流を経て,ロマン主義の立場に立った。理論的には「古典的」に対して「ロマン的」の概念を明確にし,古典主義に対してロマン主義を近代芸術観として基礎づけた。また,ロマン主義の詩の特質として「イロニー」を指摘し,「ロマン的イロニー」という独特の情調に注目した。 1802年パリで東洋語学・文学を研究,08年カトリックに改宗,のち政治に接近し,反動的立場に立った。主著,小説『ルチンデ』 Lucinde (1799) ,比較言語学的研究『インド人の言語と知恵』 Über die Sprache und Weisheit der Inder (1808) 。

シュレーゲル
Schlegel, August Wilhelm von

[生]1767.9.8. ハノーバー
[没]1845.5.12. ボン
ドイツの批評家,翻訳家,東洋語学者。弟の F.フォン・シュレーゲルとともにロマン主義運動の指導者。シェークスピアの韻文訳 (1797~1810) で知られる。ゲッティンゲン大学で神学,古典語を学んだ。 1796年イェナ大学講師,98年助教授,同年弟とともに雑誌『アテネーウム』 Das Athenäumを創刊し,ロマン主義芸術運動を展開した。ベルリンで『文学と美術』 Über schöne Literatur und Kunst (01~04) ,ウィーンで『劇芸術と文学』 Über dramatische Kunst und Literatur (09~11) を講義,1804年スタール夫人と知合い,外国を旅行,18年ボン大学東洋語学教授。博識をもって鳴り,外国文学,特にシェークスピア,ダンテ,カルデロンの翻訳紹介に努めた。

シュレーゲル
Schlegel, Johann Elias

[生]1719.1.17. マイセン
[没]1749.8.13. デンマーク,ソーレー
ドイツ啓蒙主義の劇作家,評論家。 A.W.v.シュレーゲル,F.v.シュレーゲル兄弟の叔父。雑誌『ブレーメン寄与』の同人。シェークスピアの紹介者として知られる。悲劇『カヌート』 Canut (1746) ,喜劇『沈黙の美女』 Die stumme Schönheit (47) などは,のちにレッシングに称賛された。

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百科事典マイペディア 「シュレーゲル」の意味・わかりやすい解説

シュレーゲル

ドイツの文学史家,批評家。初期ロマン派の機関誌《アテネーウム》を弟のF.v.シュレーゲルと創刊。ベルリンやボンの大学で文学を講じて人気を得,またスタール夫人と各国を旅行した。シェークスピアの戯曲17編の翻訳は不朽とされる。
→関連項目ティーク

シュレーゲル

ドイツの文学批評家,思想家。法律,古典語などを学んだのち,雑誌《アテネーウム》(1798年―1800年)を兄のA.W.v.シュレーゲルと主宰した。ドイツ・ロマン主義文学の創始者とされる。多くの評論や断章によってその文学理論を表明し,小説《ルチンデ》ではそれを実験的に試みた。晩年はカトリックに改宗して神秘思想に傾いた。
→関連項目ノバーリス

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世界大百科事典(旧版)内のシュレーゲルの言及

【ナザレ派】より

…その異様な風体からナザレ派とあだ名される。彼らの精神的・理論的基盤として,ワッケンローダーWilhelm Heinrich Wackenroder(1773‐98)の《芸術を愛する修道僧の心情吐露》(1797)や,芸術の目的を宗教的象徴に置き,15~16世紀前半のイタリア,フランドル,ドイツのいわゆるプリミティブ絵画の模倣を勧めカトリシズムへの回帰を説くF.シュレーゲルの《パリ・オランダ絵画通信》(1803‐05)が挙げられる。彼らはペルジーノ,ラファエロ,デューラーらに範を仰ぎ,聖書や中世文芸に題材を求めた。…

【ロマン派演劇】より

…そのことは統合者としての作家の立場から生まれる〈ロマン主義的イロニー〉という技法にもあらわれている。この時代には,シュレーゲル兄弟(兄=A.W.シュレーゲル,弟=F.シュレーゲル)がシェークスピアその他の翻訳や《劇芸術,劇文学講義》(1809‐11)を著し,それによってロマン派演劇に指導的な役割を果たした。近代芸術としてのロマン的な芸術は,内的分裂から出発しており,したがって統合は無限の追究となるしかなく,結局は〈解体〉をもたらす。…

※「シュレーゲル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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