出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ルネサンス期イタリア、ミラノの名家。ほぼ1450~1535年の間ミラノ公。家を興したのは、農民出身の傭兵(ようへい)隊長ムツィオ・アッテンドロMuzio Attendolo(1369―1424)。その豪胆さゆえに暴れ者(スフォルツァ)とあだ名された。その子フランチェスコFrancesco Sforza(1401―66)も知勇に優れ、イタリア屈指の傭兵隊長として地位を確立、ビスコンティ家のミラノ追放後共和国が樹立されると、これを征服し、自らミラノ公の座についた(1450)。彼は有能な政治家で、同地方の産業、文化の発展およびイタリアの政治的安定にも貢献した。その死後、長男のガレアッツォ・マリーアGaleazzo Maria(1444―1476)がミラノ公を継ぎ(1466)、さらには次男のルドビコ・イル・モロLudovico Sforza, Il Moro(1452―1508)が摂政(せっしょう)を経てミラノ公になった(1494)。しかしルドビコは保身のため外国勢力をイタリアに招くという愚挙を犯し、結局は自らもルイ12世によりミラノを追われた(1499)。以後スフォルツァ家はルイ12世、カール5世の傀儡(かいらい)としてミラノ公の地位を保つが、1535年、公国は後者の領土に併合され、同家は没落した。
[在里寛司]
15~16世紀にミラノを支配した一族。ヴィスコンティ家の傭兵隊長であったフランチェスコ(1401~66)が1450年にミラノ公位を簒奪し,54年ヴェネツィア共和国との間にローディ(Lodi)の和約を結んでミラノの支配者としての地位を固めた。その子ルドヴィーコ(通称モーロ,1452~1508)はヴェネツィアと結んでフランスの侵入に対抗したが,ルイ12世によってミラノを追われた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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