フランスの映画監督、俳優。パリ郊外、セーヌ・エ・オワーズ県(現在のイブリーヌ県)ペック生まれ。本名はジャック・タチシェフJacques Tatischeff。家族はパリで額縁工房兼販売店を営んでいた。父方の祖父はロシア人で伯爵の称号をもつ。母方の祖父は画家ゴッホと交流もあった額縁職人だった。一人息子ジャックは家業を継ぐべく店での見習いや国立工芸学校への受験準備を命じられていたが、1925年から騎兵連隊で兵役についたことと、1928年にラグビーのクラブ・チーム、ラシン・クラブ・ド・フランス(RCF)に加入したことが、彼の人生の方向性を決定づけた。軍隊やスポーツにおける体験は、当人がまじめであればあるほどにじみ出る身体動作の滑稽(こっけい)さをタチに教え、それをとらえる観察眼を育む機会を与えたのだ。1930年、チーム主催の舞台で、初めて「スポーツ・ミュエ」(無声スポーツ。テニス選手などの動作にみられる滑稽さを誇張して演じ、観客の笑いを誘うもの)なるパントマイムを披露。以降も舞台を重ねながら、1935年には芸の題を「スポーツの印象」に変更、芸名「ジャック・タチ」を名のるようになる。
知名度を高め、ヨーロッパ各地への巡業の旅にも出たタチだが、レビュー全盛時代が終わりを迎えつつあることは誰の目にも明らかだったため、並行して短編映画の習作を何本かつくったものの、満足のいく出来映えとはならなかった。結局、タチのパフォーマンスが映画と融合を果たすのは、第二次世界大戦後に、彼自身が監督、脚本、主演を兼ねた短編『郵便配達の学校』École des Facteurs(1947)においてであり、その後も、監督、脚本、主演をタチが兼任する体制が堅持される。同作で主人公として登場したタチ演じる自転車乗りのスピード狂郵便配達人フランソワのキャラクターは、続く最初の長編『のんき大将脱線の巻』(1949)に継承されたが、好評を博した同作のシリーズ化を拒絶し、タチは次作『ぼくの伯父さんの休暇』(1952)を世に問う。海辺の避暑地に集う人々のなかに謎の中年紳士ユロ氏を置き、彼が不本意ながら巻き起こす混乱をほのぼのとしたタッチで描く同作は、その年のルイ・デリュック賞やカンヌ国際映画祭国際批評家賞を受賞。チャップリンのように能動的に笑いを引き起こす存在ではなく、意図せざる結果として周囲に笑いをもたらす受動的な存在であるユロ氏は、その後、良くも悪くもタチの代名詞的な存在として人々の記憶に刻まれることになった。
タチ=ユロ氏の名声は、続く初のカラー作品『ぼくの伯父さん』(1958)で頂点に達する。前作では謎(なぞ)のままだったユロ氏のバックグラウンドが本作でいくらか明らかになった。ユロ氏はパリ下町の古いアパルトマンで気ままな独身生活を送り、対照的に滑稽なまでにモダンな住宅で暮らす兄の尽力にもかかわらず、就職を世話された工場や、異性への紹介が計画されたパーティーで失敗ばかり繰り返す。1958年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞やアカデミー最優秀外国語映画賞などに輝いた本作の成功は、タチ=ユロ氏を国際的な著名人に押し上げ、タチはその余勢を駆ってフランス映画史上最大級の問題作『プレイタイム』(1967)の製作に乗り出す。パリの東バンセンヌ近郊の広大な敷地に超モダンな建築群からなる巨大セットが組み立られ、撮影期間は足かけ3年、資金不足による中断も何度か繰り返され、結局、総製作費15億フランと当初の予定の4倍もの予算をかけてようやく作品は完成。今日ではタチの完全主義的演出を徹底させた傑作との評価も確立しているが、作品の中心であるはずのユロ氏の存在感を、むしろ希薄にさせる演出の方向性もあって、当時は多くの観客や批評家を戸惑わせ、商業的に大失敗。タチに多くの借金を負わせ、その後の映画作りに深刻な足かせとなった。
続く『トラフィック』(1971)は、ユロ氏を主人公とする最後の映画となり、最後の作品となった『パラード』(1974)では、往年の十八番である「スポーツの印象」を再現するなど、彼を育てたレビューの世界へオマージュが捧げられた。晩年も映画作りへの情熱は衰えず、脚本「コンフュージョン」を書き上げたが、それを映画化する体力と時間は残されておらず、肺血栓によって1975年の生涯を閉じた。
[北小路隆志]
郵便配達の学校 L'école des facteurs(1947)
のんき大将脱線の巻 Jour de fête(1947)
新のんき大将 Jour de fête(1949)
ぼくの伯父さんの休暇 Les vacances de Monsieur Hulot(1952)
ぼくの伯父さん Mon oncle(1958)
プレイタイム Playtime(1967)
トラフィック Trafic(1971)
パラード Parade(1974)
『坂尻昌平監修『ジャック・タチ』(1999・エスクァイア マガジン ジャパン)』▽『マルク・ドンデ著、佐々木秀一訳『タチ――「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの真実』(2002・国書刊行会)』
フランスの喜劇映画の〈孤高の詩人〉といわれ,有名なジョルジュ・サドゥールの《世界映画史》では,〈マックス・ランデル以来最高のフランスのコメディアン〉という評価である。タチシェフTatischeffという本名が示すとおり,ロシア人の家系である。パリ近郊の生れ。
ミュージック・ホールの芸人で,スポーツ形態模写のパントマイムから映画入りし,村の郵便配達人がアメリカ映画の郵便配達をまねて失敗するという《のんき大将脱線の巻》(1947)を皮切りに,脚本,演出,主演を兼ねた長篇喜劇5本を作った。第2作《ぼくの伯父さんの休暇》(1952)以降の作品は,長身に寸たらずのズボン,パイプにこうもり傘といういでたちの,風来坊型の主人公ユロ氏Monsieur Hulotとその周辺の人々が,スプスティックほど激しくはない〈優雅な〉視覚(サイト)ギャグを演ずるという内容で,数々の賞を受けた。第3作《ぼくの伯父さん》(1958)が代表作で,機械文明をやんわり皮肉った笑いや,ユロ氏自身がほとんど口をきかないことなどから〈フランスのチャップリン〉とも呼ばれた。しかし,そのあまりにも浮世離れした〈毒〉のなさが,第4作の70ミリ大作《プレイタイム》(1967)の失敗を生み,彼を破産に追いこんだ。日本未公開の第5作《交通大戦争Trafic》(1970)では,ニューモデルのキャンピングカーを陸送するという話を,従来のひょうひょうたるユーモアに,それなりの今日性を加味して描いている。当時61歳という年齢で,大木の枝に両ひざをかけて逆さにぶらさがるという特技も見せたが,結局これが遺作となった。
タチの持味は,むしろクロード・オータン・ララ監督の《乙女の星》(1945)の,古城の城主の幽霊(〈白い猟人〉とロマンティックな名で呼ばれる)の役などに生かされていたともいえよう。
執筆者:森 卓也
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…ジェラール・ウーリー監督)をはじめ,事実上わき役のフュネスの珍演が見どころの《ファントマ》シリーズなどがある。こうした風潮から超然としていたのは,サイレント的なパントマイム演技で押し通した,自作自演のジャック・タチ(《のんき大将脱線の巻》1947,《ぼくの伯父さん》1958,など)くらいで,アメリカのブレーク・エドワーズ監督,ピーター・セラーズ主演の《ピンク・パンサー》も刑事物のシリーズである。さらに映画全体の様相が一変した60年代以降は,〈死〉にまつわるブラック・ユーモア作品が目だってくる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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