北アフリカ、モロッコ最北部のジブラルタル海峡に面した港湾都市。地中海の入口という戦略的位置から、強国の争奪の的となった歴史をもつ。人口52万6215(1994)、市域の人口99万8972(2014推計)。大西洋から10キロメートル海峡に入った所に位置し、半円形の湾入をもつ天然の良港で、市街地は背後の丘の斜面から海岸まで分布する。湾の西端にある港の船上から見上げる白い街の景観は美しい。市街はメディナとよばれるアラブ風旧市街とヨーロッパ風新市街とがある。メディナには、旧王族邸で博物館になっているダール・ル・マフゼンや大モスクがあり、伝統工芸品をつくる工房も分布する。工業としては食品、繊維、セメント、電器、造船などがある。カサブランカ、フェズ、ウジダなどと鉄道で結ばれ、スペインのアルヘシラスへは定期連絡船が通っており、外国人観光客やヨーロッパへの出稼ぎ移民の出入りが多い。夏涼しく、冬温和なので、避暑客、避寒客が訪れる。
[藤井宏志]
フェニキア人の建設に始まり、ローマの支配を経て、7世紀にアラブ人の支配下に入った。15世紀以後ヨーロッパ勢力の南進につれ、ポルトガル、スペイン、イギリスに支配されたのち、1684年モロッコ(アラウィ朝)の領土となった。19世紀にふたたびヨーロッパ列強の植民地化の波が押し寄せ、タンジールは鎖国体制にあったモロッコの外交都市となった。1905年第一次モロッコ紛争の発端となったタンジール事件が発生、12年モロッコはフランス、スペインの保護領として分割され、タンジールは特別にフランス、スペイン、イギリス3国の国際委員会の管理下に置かれた。23年にはイタリア、ポルトガルなど5か国を加えた委員会による国際管理地区となり、25年永世中立の国際都市を宣言し、タンジールは自由貿易港として発展した。40年に一時スペインが占領したが、45年アメリカが加わった国際管理委員会が復活した。1956年3月モロッコの独立に伴い、同年10月モロッコに返還された。
[藤井宏志]
ジブラルタル海峡に面するモロッコ北部の港市。人口78万2000(2003)。アラビア語ではタンジャṬanja。モロッコの玄関口としてにぎわい,スペイン人やフランス人の居住者も多い。フェニキア人の交易都市が起源で,カルタゴやローマ時代には商業が栄え,7世紀末以降はイスラム教徒の軍事上の拠点として重要であった。15世紀後半からは,ポルトガル,スペイン,イギリスなどに支配されたが,1684年再びモロッコ領となる。しかし,19世紀後半からは西欧列強の進出に遭い,1905年第1次モロッコ事件が勃発,25年に永世中立の国際都市となったが,56年モロッコの独立によりモロッコ領となる。14世紀の旅行家イブン・バットゥータの生まれた旧市街は丘の上に立つ。現在は,建設,観光,漁業以外に目だった産業はない。
執筆者:私市 正年
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アフリカ西北端,ジブラルタル海峡に面するモロッコの港市。19世紀後半より列強がここに進出し,1905年モロッコ事件が発生,25年永世中立の国際都市となる。56年モロッコの独立に際し返還。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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