カルタゴ(その他表記)Carthago

デジタル大辞泉 「カルタゴ」の意味・読み・例文・類語

カルタゴ(Carthago)

アフリカ北部、現在のチュニジアフェニキア人が建設した古代植民都市。紀元前6世紀以来繁栄したが、ローマと地中海の覇権を争い、前146年、第三次ポエニ戦争で滅亡。首都チュニスの北郊にその遺跡があり、1979年、世界遺産文化遺産)に登録された。カルタージュ

カルタゴ(Cartago)

コスタリカ中央部の都市。首都サンホセの南東約20キロメートル、イラス山南麓のカルタゴ盆地に位置する。カルタゴ県の県都。同国最古の町として知られ、守護聖母「黒いマリア像」を祭ったロス‐アンヘレス大聖堂がある。

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精選版 日本国語大辞典 「カルタゴ」の意味・読み・例文・類語

カルタゴ

  1. [ 一 ] ( Carthago ) アフリカ北部、チュニス湾に臨む古代都市。紀元前九世紀頃、フェニキア人によって建設され、前六世紀にはギリシアを破って、地中海の制海権を獲得。前一四六年、ポエニ戦争により滅亡。のちカエサルによって復興されたが、六九八年、アラビア人に破壊された。
  2. [ 二 ] ( Cartago ) 中央アメリカ、コスタリカ共和国中部の都市。肥沃な火山性土壌を有し、農業を主とし、コーヒー、野菜などを産する。

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改訂新版 世界大百科事典 「カルタゴ」の意味・わかりやすい解説

カルタゴ
Carthago

チュニジア海岸チュニス近郊の古代都市。その名はフェニキア語のKart-Hadasht(〈新都市〉の意)による。その国民をローマ人はポエニPoeniと呼んだ。

テュロスからの植民(伝承では前814)により誕生したカルタゴ市は西への海上交通の要衝を占め,良港と肥沃な後背地のゆえにシドラ湾以西,大西洋岸に至るフェニキア系植民市群の頂点に立って西地中海交易網を手中に収めた。前6世紀以降ギリシア諸市,特にフォカイアの西方植民が活発化すると,エトルリア人と結び,他のフェニキア系諸市への統制を強めつつスペイン,サルディニア,アフリカ一帯に拠点を築いて交易独占を守ろうとしたが,ギリシア,フェニキア両勢力の混在するシチリアでは泥沼の抗争を余儀なくされた。前5世紀末からはシラクサ僭主を中心とするギリシア勢の攻勢の前に,その影響力は島の西部に限定されていく。これ以降のカルタゴのアフリカ内陸への領域拡大は,この挫折の埋め合せであった。この間ローマとは2度の条約(前509,前348。カルタゴの交易独占確保とイタリア内部不干渉を規定)で友好を保ち,エペイロスのピュロス王侵入には共同で対抗(前280)したが,前264年シチリア問題をめぐる衝突を機に3次にわたる大戦(ポエニ戦争)に突入。前146年ローマの最終的勝利によりカルタゴは完全に破壊され,国家としての歴史を閉じた。

 カルタゴの交易活動の中心は原住民との物々交換による西方,ことにスペイン,アフリカ産金属(金,銀,スズ,銅)の取引であり,その利益は寡占に依拠した。カルタゴ支配層(大商人門閥)の内外での閉鎖性はこれに由来する。カルタゴは他のフェニキア・ポエニ系都市に対してローマの市民権付与政策のような支配層の外延的拡充策をとらなかったし,国内では厳格な寡頭政を墨守して中・下層市民の進出を阻んだ。最高政務官は毎年門閥から選出される2人のスフェテスsuffetes,軍事指揮官は別途選ばれる将軍であったが,実権を握るのは数百名の門閥から成る元老組織,104人から成る裁判委員会であり,独裁者出現の芽は厳しく摘みとられた。民会(市民総会)は有名無実であり,市民の従軍はまれで,イベリア人,バレアレス人等,西地中海諸住民からの傭兵,従属リビア人からの徴兵,ヌミディアマウレタニアベルベル人首長からの援軍が軍隊の中核をなした。商人の社会的地位の高さと軍人への評価の低さはギリシア・ローマ社会と対照的である。領域内ベルベル人(リビア人)統治機構の詳細は知られていないが,貢納率は平時に全収穫の1/4,戦時には1/2に及んだと言われる。交易統制,勢力圏確保,外国船排撃等,大商人の利害を体現するカルタゴ国家の対外政策遂行はこの政体においてこそ可能であった。門閥中マゴMago家等軍人一門の出身者は,傭兵軍を後ろだてに交易活動から締め出された下層市民の支持を得てなん度か僭主化を目ざしたが,寡頭政転覆には至らず,またリビア人反乱,傭兵反乱もカルタゴの支配を揺るがさなかった。他方,下層市民とリビア人の通婚の結果リビア人のフェニキア化は相当進行し,ポエニ的制度を備えた原住民都市も出現した。カルタゴの交易品は奴隷を含み,農業,手工業での奴隷使用も見られたが,奴隷制が全面的に展開していたとは言い難い。前4世紀以来活発化したヘレニズム世界へのアフリカ産農産物の輸出でも,中心となったのはリビア人共同体からの徴収穀物であり,奴隷労働によるオリーブ・果樹栽培はカルタゴ市近郊の所領に限られた。

 手工業はブドウ酒,陶器,織物,模造宝石等を生産したが,原住民との物々交換用が主で安価・粗悪を特徴とした。建築,美術もギリシア,エジプトの模倣が多く独自の様式に乏しい。農法は高度の発達を見,マゴ著の農書はローマの奴隷制農場経営に役立てるべくカルタゴ滅亡後ラテン語訳された。船舶建造も盛んで船隊の活動範囲は最大ギニア湾付近に達したと言う。風俗,宗教はフェニキアのそれを継承したが,信仰形態はより厳格主義的,狂熱的で,国家危急の際には大規模な人身御供も行われたとされる。

カルタゴ国家消滅後も北アフリカのフェニキア系都市の活動は続き,帝政後期にもベルベル社会にはポエニ的特徴が残存した。破壊後一切の居住・耕作を禁じられたカルタゴの故地には,G.グラックスにより植民が計画され,カエサルの下で実現した。復活したカルタゴ市はアフリカ州の主都として西方ではローマ市に次ぐ規模に発展し,3世紀にはテルトゥリアヌスキプリアヌスなど教父の活動により,キリスト教界の思想的中心地となった。バンダル,東ローマの支配時代を経て697年アラブ侵入の際破壊され,以後近代まで無人の地であった。なお,カルタゴ研究における問題点は,カルタゴに関する知識がもっぱらヘレニズム的価値観からその〈残忍さ〉を強調するギリシア人やローマ人の著作に基づいていることによる。このカルタゴ観のゆがみは西欧近代のアンチ・セミディズム的色づけで増幅されているとも言えよう。
フェニキア →ポエニ戦争
執筆者:


カルタゴ
Cartago

コスタリカの中部にある都市。人口14万2442(2003)。イラス火山のふもとの,標高1439mの高原にあり,1563年にスペイン人の手によって建設された。19世紀初めに,同国の首都が置かれたこともある。これまで何度も地震の被害があったが,農産物の集散地として今なお重要な地位を占めている。日曜日に開かれる農民市場は有名で,また同市にある黒い聖母像(ラ・ネグリタ)は病気治癒の力をもつとされ,中米全域から巡礼が訪れる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルタゴ」の意味・わかりやすい解説

カルタゴ(古代都市)
かるたご
Carthago ラテン語
Karthago ラテン語

北アフリカのチュニス郊外にあった古代都市。西地中海に散在するフェニキア系植民市の一つで、紀元前814年ティルスTyrusを母市として建設されたという。名称は、フェニキア語で「新しい都市」を意味するKart-Hadashtに由来する。この都市の遺跡は1979年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。「カルタゴ人」はラテン語では「ポエニ」Poeniとよばれる。

 当時、フェニキア系都市の間では、東地中海世界での金属器使用の増加に伴って、原住民との物々交換でイベリア半島などの西地中海産鉱石を入手し、東方に売る鉱石取引が盛んとなりつつあったが、良港と肥沃(ひよく)な後背地に恵まれたカルタゴは、この取引の主導権を握り、貿易統制、同盟、植民などの手段によってシドラSidra湾以西のフェニキア系都市の大部分を自己の交易網に組み込むことに成功した。したがって、イベリア半島、北アフリカ、シチリア、サルデーニャ、バレアレスなどの住民にとっては、ポエニ文化こそが最初に接触した本格的オリエント文明であった。このカルタゴの貿易独占は、前6世紀以降、フォカイアPhocaeaなどギリシア系ポリスの西方植民によって動揺した。守勢となったカルタゴは、エトルリア人やローマとの同盟(前509年、前348年の2回。カルタゴの貿易独占と、イタリア内部不干渉を規定)をもってこれに対抗したが、前480年ヒメラHimeraでの敗戦を境として、とくにシチリア島では勢力後退を余儀なくされた。前4世紀にはシラクサを中心とするギリシア勢の攻勢の前にカルタゴの貿易は行き詰まりをみせ、前3世紀には従来の支配層である大商人門閥に混じって、奴隷制農場経営に経済的基盤をもつ新たな階層が登場し、同時に、これまでカルタゴ国政においてほとんど発言権をもたなかった下層市民が独自の動きをみせ始めた。こうしてカルタゴ社会全体の変質が進むなかで勃発(ぼっぱつ)したローマとの戦争(ポエニ戦争)は、結局カルタゴの完敗に終わり、前146年、ローマ軍の破壊によってカルタゴはその国家としての歴史を閉じた。

 カルタゴ市にはポエニ語の記録、裁判文書、歴史書が豊富に存在したと伝えられるが、宗教関係の碑文類を除いては現存せず、カルタゴについての史料の大部分は、敵であるギリシア人、ローマ人著作家の叙述である。したがってこれによって構築されたカルタゴ像には不明の点が多いばかりか、ある種のゆがみが加わっている可能性が強い。

[栗田伸子]

国制および軍制

最高政務官である2名のスフェテスSuffetesが数百名の元老院とともに軍事、外交、行政の大権を握っていたとされる。ほかに104名からなる裁判委員会もあった。成年男子市民のほぼ全員からなる民会には、スフェテスと元老院が提出に同意した案件の採決権があり、民会参加者全員に代案提出権があった。アリストテレスはこの政体を王政、貴族政、民主政の混合政体として高く評価するが、現実には民会の発言権は限られたものであり、また政務官に対しては元老院の厳しいチェックが働き、結局カルタゴ国政の主体は、閉鎖的な大商人門閥の牙城(がじょう)たる元老院にほかならなかったと考えられている。

 また、軍の指揮権は当初スフェテスに属したが、しだいにこれとは別の「将軍」職が生まれ、バルカ一族のような軍事専門家的門閥が形成された。カルタゴ市民はほとんど従軍せず、軍の中核はイベリア人、バレアレス人、ギリシア人、ベルベル人などの傭兵(ようへい)が占めていた。ポエニ戦争中の前3世紀には傭兵の大反乱が起き、カルタゴを内側から揺さぶった。

[栗田伸子]

社会階層

マゴ家、ハンノ家などの大商人門閥=支配層のほかに、カルタゴ市には多数の下層市民が存在した(前3世紀のカルタゴの人口は推定10万人)が、彼らの生活形態は、零細な商人、手工業者と推定されるのみで、不明の点が多い。奴隷は手工業や市近郊大農場の労働力として相当使用されていたと思われるが、地位、待遇についてはわかっていない。カルタゴは現在のチュニジア北部のかなりの面積を領土としていたが、この領域内の原住民(いわゆるベルベル系の住民)はそれぞれの共同体を保持したまま収穫の4分の1(戦時には2分の1)を貢納する隷属民となっていた。

[栗田伸子]

宗教および文化

フェニキア文化、シリア地方のセム系諸文化と共通する部分が多い。フェニキアの神々のなかでもバアル・ハモン神、タニト女神両神が市の守護神としてとくに信仰された。反カルタゴ的なギリシア、ローマ著作家が強調する人身御供(ごくう)の習慣もこのようなフェニキア文化一般の一要素であって、カルタゴ特有のものではない。

[栗田伸子]

『長谷川博隆著『ハンニバル――地中海世界の覇権をかけて』(『人と歴史シリーズ 西洋3』1973・清水書院)』


カルタゴ(コスタリカ)
かるたご
Cartago

中央アメリカ、コスタリカ中部の都市。カルタゴ県(人口43万2395。2000)の県都。中央高原東部、イラス火山山麓(さんろく)のカルタゴ盆地にある。標高1500メートル。人口13万2057(2000)。1563年に建設され、1823年までコスタリカの首都であった。中心部にある大教会および教区府の跡が建設当時をしのばせる。1841年と1910年の2回、地震により大被害を受けた。周辺地域はコーヒー、野菜、酪農など農業が盛んである。パン・アメリカン・ハイウェーと鉄道で主要都市と結ばれる。

[今野修平]

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百科事典マイペディア 「カルタゴ」の意味・わかりやすい解説

カルタゴ

北アフリカのフェニキア人植民市。遺跡はチュニス北郊にある。その住民をローマ人はポエニPoeniと呼んだ。伝承では前9世紀末にテュロスの植民者が建設したといわれる。前6世紀西地中海の通商権を握り,コルシカ,サルディニア,スペインに進出,シチリア西半部を掌握したが,同島の覇権をめぐりギリシア人と衝突。さらに前264年―前146年の3次にわたるポエニ戦争でローマに敗れて属州アフリカに編入された。前44年カエサルが市街を再建し,帝政期にはローマに次ぐ大都市として繁栄,キリスト教世界の思想的中心地のひとつでもあった。5世紀バンダル人に占領され,7世紀末アラブ人に破壊された。最盛期の2−3世紀に建設された神殿・劇場・浴場などの遺構がある遺跡は1979年,世界文化遺産に登録。
→関連項目カルタゴ遺跡サブラータの古代遺跡植民市ディドハンニバルマルタレプティス・マグナの古代遺跡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルタゴ」の意味・わかりやすい解説

カルタゴ
Carthago

北アフリカで最も栄えた古代都市。現チュニジアの首都チュニスの北東約 16km,地中海に突き出した三角形の半島に位置し,投錨に適した魚類豊富なチュニス湖を背に,防衛上きわめて有利な地形に恵まれていた。おそらく前 720年頃地中海に進出したフェニキア人がここに貿易都市を創設した。地名は「新しい都市」を意味する Qarthadashtに由来する。ギリシア人はカルケドン,ローマ人はフェニキア人をなまってポエニ人の町と呼んだ。フェニキア人はここを基地に大西洋沿岸地方まで船隊を派遣し,北アフリカや南部スペインでの銀の産出のほか,果実,家具,象牙を含む各種物資の貿易を 500年にわたって続け,しだいにカルタゴは勢力を蓄え,周辺の都市を支配するに及んだ。前6世紀頃からシチリア領有をめぐってギリシア諸都市と争いが生じ,前4世紀頃までシチリア戦争は続いた。さらに前3世紀頃よりシチリアにおける領土とチレニア海の制海権をめぐって3回にわたるポエニ戦争をローマと戦った。ハミルカル・バルカス,天才的な軍略を縦横に駆使したハンニバルらの将軍はローマと果敢に戦ったが,ローマの名将スキピオ・アフリカヌスに敗れ (第2次ポエニ戦争) ,カルタゴは凋落した。さらにカルタゴの復興を恐れたローマは,ついに前 146年カルタゴを全滅させ,略奪,放火によって,町は廃墟と化した (第3次ポエニ戦争) 。前 29年ローマの属州アフリカの行政中心地として再建され,かつての繁栄を取り戻し,都市および大農園には多くの公共建築物が建造され,先住民のローマ市民化も進み,皇帝を輩出するまでになった。 200年以後キリスト教が急速に広がり,アウグスチヌスら多数の神学者が活躍した。しかし4世紀末頃より衰退しはじめ,439年にはバンダル族に,553年にはビザンチン帝国に占領され,697年アラブ人によって完全に破壊された。ローマ期のものを中心とした遺構,遺跡は,1979年世界遺産の文化遺産に登録。

カルタゴ
Cartago

コスタリカ中部の都市。同名州の州都。首都サンホセの南東約 20km,イラス火山南麓の標高約 1500mの地に位置する。 1563年スペイン人によって建設され,1823年までスペイン植民地コスタリカ地方の首都とされた。 17世紀にはたびたび市の富をねらった海賊に襲撃された。地震が多く,しばしば大きな被害を受け,1910年にはほとんど全市が倒壊。現在は周辺の人口稠密な農業地帯に産するコーヒーの集散地。市内にはコスタリカの守護神ロスアンヘレスの聖母をまつる聖堂があり,国内各地から多くの巡礼が訪れる。首都と鉄道,パンアメリカン・ハイウェーで連絡。人口2万 9771 (1991推計) 。

カルタゴ
Cartago

コロンビア西部,バイェデルカウカ州北東部の都市。首都ボゴタの西約 200km,アンデス山中の肥沃なカウカ谷にある。農業地帯の商業中心地で,タバコ,サトウキビ,コーヒー,肉牛などを集散する。 1540年に建設された古い町で,市内には副王邸などスペイン植民地時代の優れた建築物も残っている。州都カリとメデリンを結ぶ幹線道路,鉄道が通る。人口9万 2524 (1985) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カルタゴ」の解説

カルタゴ
Carthago

北アフリカ北岸のフェニキア人植民市。前9世紀にティルスの植民者によって建設されたといわれる。前6世紀に西地中海の通商権を掌握し,コルシカ,サルデーニャ,ヒスパニアに進出し,シチリア全島を従えたが,同島をめぐり前5~前4世紀にギリシア植民市と争った。ローマ人との覇権争いは3次にわたるポエニ戦争(前264~前146年)となったが,敗れて滅んだ。前44年カエサルが再建し,帝政期には再び繁栄して司教都市となった。439年ヴァンダルに占領され,698年アラブ人に破壊された。遺跡はチュニジアの首都チュニスの北郊に広がる。

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世界の観光地名がわかる事典 「カルタゴ」の解説

カルタゴ【カルタゴ】
Carthage

チュニジアのカルタゴにある遺跡。チュニスの北北東15km、チュニス湾沿いにある都市国家遺跡で、紀元前814年にフェニキアの女王ディド(エリッサ)が建設したと伝えられている。ローマの支配を受けたため、ほとんどがローマ時代のものである。「ピュルサの丘」と呼ばれる高台がかつての都の中心で、現在は博物館が建ち、周辺には2世紀にローマのアントニヌス帝が建造した「アントニヌスの浴場」や1万人を収容したという「ローマ劇場」、軍艦が出入りしたという「カルタゴ港」、古代神を祀る墓地「トフェ」などの遺構が残っている。

出典 講談社世界の観光地名がわかる事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「カルタゴ」の解説

カルタゴ
Carthago

アフリカ大陸北岸,現在のチュニジアを中心に栄えたフェニキア人の植民市
前9世紀にティルスの植民市として建設され,母市ティルスがアッシリアに支配されてからは,西地中海の貿易を支配した。ローマとのポエニ戦争(前264〜前146)に敗れて滅亡したが,前45年カエサルによって再建され,帝国内屈指の大都市として繁栄した。のちヴァンダル族に占領され首都となるが(後439),アラビア人によって破壊された(698)。

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世界大百科事典(旧版)内のカルタゴの言及

【ディド】より

…ギリシア・ローマ伝説で,カルタゴの創設者とされる女王。フェニキアのテュロスの王女として生まれ,巨万の富をもつ叔父シュカイオスと結婚したが,父王の死後,王位についた兄ピュグマリオンに夫を殺されたため,財宝を船に積んでリビアへ逃れた。…

【フェニキア】より

…旧約聖書中のカナン人の語源は,前14世紀の〈アマルナ文書〉などにみえるキナフKinaḫḫuであると考えられ,これは〈深紅色〉または〈赤銅色〉を意味し,この地方特産の染料の色,もしくは住民の肌の色に由来するとされる。フェニキア人という名称はギリシア語フォイニケスPhoinikes(ラテン語では主としてカルタゴ人を意味するポエニPoeni)であり,その意味はキナフと同様である。ギリシア人の伝説によると,テュロス王アゲノルAgēnōrの子の一人にフォイニクスPhoinixがい,そこからフェニキアという地名が起こったとされる。…

【ポエニ戦争】より

…ローマとフェニキア人の植民市カルタゴとの前後3次にわたる戦争。ポエニPoeniとはラテン語でフェニキア人を意味する。…

【マグリブ】より

…ここは,古くはローマ帝国時代から小麦を中心とする穀倉地帯であったし,チュニジア東部海岸,ハマメトからスファックスのいわゆるサヘル地帯は,今日に至るまでオリーブの産地として有名である。また,かつてのローマやフェニキアが建設した都市,例えばアルジェリアのシャルシャル(シェルシェル),チュニジアのウティカやカルタゴなどと同様に,カサブランカ,アルジェ,チュニスなど現在の主要都市も,多くがこの気候区に位置している。アトラス山脈の北側は,雨量も多く,高原状の土地でのオリーブ,イチジクの栽培が盛んであるが,その南側からサハラ砂漠にかけては半乾燥の高原やステップ地帯を形成する。…

【ローマ】より

…植民市(コロニア)はローマ市民権かラテン市民権(投票権なきローマ市民権)を与えられ,土着民(サムニテスも含め)も土地とローマ市民権を与えられた。
[第2期(前264‐前133)]
 西地中海の雄となったローマは,カルタゴ,東部のヘレニズム諸王国,スペイン(ヒスパニア)などとの衝突と戦争の時代に入る。まずカルタゴとは3次にわたるポエニ戦争(前264‐前241,前218‐前201,前149‐前146)を戦い,これを徹底的に破壊した。…

※「カルタゴ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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