チェコスロバキア共産党(読み)チェコスロバキアきょうさんとう(その他表記)Strana Československych komunistu:SČK

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チェコスロバキア共産党」の意味・わかりやすい解説

チェコスロバキア共産党
チェコスロバキアきょうさんとう
Strana Československych komunistu:SČK

チェコスロバキアおよびチェコ政党。 1921年,社会民主党から左派分裂し結成された。 39年のナチスによるチェコスロバキア占領以後は,対独地下抵抗運動を強力に展開した。 46年の総選挙では,国家再建2ヵ年計画,対ソ協調を主張して第1党となり,党全国会議議長 K.ゴットワルト首班とする連立政府を組織した。 48年2月,警察権力を背景としてクーデターを起し,ナショナリストや反共諸政党を弾圧,共産党政権を確立した。政権掌握後,49年の 25万人除名,52年のスランスキー事件など激しい動揺をみせたが,53年 A.ノボトニーが第一書記に就任して以後は対ソ協調路線を確保,安定を回復した。この親ソ路線は 56年のスターリン批判以後も一貫して存続した。しかしその政治はさまざまな領域で破綻をきたし,68年1月,党中央委員会総会はノボトニーを更迭し,A.ドプチェクを第一書記に選出した。新指導部は党行動綱領の発表を行い,非スターリン化政策を推し進めたが,ソ連はこれを反社会主義であると非難し,同年8月ワルシャワ条約軍をプラハへ侵攻させ,ドプチェク路線を弾圧した (→チェコ事件 ) 。 69年4月,党中央委総会でのドプチェクの辞任と G.フサーク第一書記の選任で親ソ路線が再び確立した。 75年5月 29日 L.スボボダが健康上の理由で連邦大統領を辞任。フサークが党第一書記のまま連邦大統領についた。しかし 1980年代後半フサークは解任され,88年8月の「チェコ事件 20周年」を契機に民主化要求の大規模なデモが続発し,89年 11月の「ベルリンの壁」崩壊でヤケシュ書記長は退陣。同月連邦議会は共産党の指導的役割を削除した憲法改正案を可決し,複数政党政治へ踏出した。同年 12月「市民フォーラム」による非共産主義政権が発足,90年6月の総選挙で党は惨敗,91年8月党名を「チェコ・モラビア共産党,民主左翼党連合」に変更したが,93年1月にはチェコとスロバキアに分離したため,チェコ側では党名を「ボヘミア・モラビア共産党」と改称。しかしその後分裂が相次ぎ,93年6月の党大会で右派が離党し,民主左翼と合流。また一部議員が離党して左派ブロックを形成したが,正統派の共産主義を標傍するボヘミア・モラビア共産党は安定した支持を保ち,98年6月総選挙では下院で第3党の座についた。

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百科事典マイペディア 「チェコスロバキア共産党」の意味・わかりやすい解説

チェコスロバキア共産党【チェコスロバキアきょうさんとう】

チェコスロバキアの政権政党。1921年創立。第2次大戦中反ファシズム勢力の一つとなる。1948年ゴットワルトザーポトツキー指導下に権力を掌握,社会民主党と合同東欧の中でも親ソ性が強く,非スターリン化もおそかった。1968年になって民主化運動が激化し,ドゥプチェクによる自由化運動が行われたが,ソ連の武力介入で挫折。1989年の共産党独裁体制崩壊から,1993年のチェコとスロバキアの分離・独立に至る過程で,チェコ側のボヘミア・モラビア共産党とスロバキア側の民主左翼党に分離された。
→関連項目チェコフサーク

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世界大百科事典(旧版)内のチェコスロバキア共産党の言及

【チェコスロバキア】より

…6月には第1次土地改革が始まり,10月には基幹産業国有化が行われた。46年5月の憲法制定国民議会選挙でチェコスロバキア共産党が第一党となり,ベネシュ大統領は同党党首ゴットワルトを首相に任命し,連立内閣が組閣された。 47年6月にマーシャル・プランが発表されると,最初内閣は参加を決定したが,スターリンの介入により撤回し,9月には共産党はコミンフォルムに参加した。…

※「チェコスロバキア共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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