中国共産党は1950年、チベットに進駐。59年のチベット動乱でダライ・ラマ14世が亡命、インド北部ダラムサラに亡命政府が樹立すると、中国は65年9月1日にチベット自治区を成立させた。その後、中国の抑圧的な統治に反発する抗議活動が頻発。89年と2008年にはラサで大規模暴動が起き、09年以降は抗議の焼身自殺も相次いでいる。ノーベル平和賞受賞者、ダライ・ラマは「高度な自治」を求めているが、中国は「分裂主義者」と敵視している。(北京共同)
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中華人民共和国南西部にある自治区。中国では西蔵自治区と表記される。略称は蔵。北側東部は青海省,北側西部は新疆ウイグル自治区,南西部はインド,南はネパール,ブータン,インド,ミャンマー,東部は雲南省,四川省と接する。面積120余万km2,人口262万(2000)。1地区級市,6地区からなり,さらにそれらが77県級行政地域(1市,76県)に区分されている。自治区人民政府所在地はラサ(拉薩)市。
チベット自治区は北はタングラ(唐古拉),ホフシル(可可西里),崑崙,西はカラコルムの支脈とヒマラヤ,南はヒマラヤ,東は横断山脈にかこまれ,ほぼ全域が青蔵高原の一部,すなわちチベット高原からなりたつ典型的な山地性高原である。高原の基準面が標高平均4000m以上もあって,高く広大なうえに,高原周辺部の山脈もまた標高6000~8000mもある。チベット高原はまた,隆起高原でもある。第三紀始新世後期から鮮新世までに約1000mの原高原面ができ,以後,今日までの200万~300万年の間に急上昇している。高原部は平たんで,河川の開析,浸食もほとんどみられないが,これは高原の隆起の速さに,河川の下刻作用が対応できなかったためと考えられる。ヤルンズアンボ(雅魯蔵布)川やセンゲズアンボ(森格蔵市,獅泉河)などの大河もあり,急流をなすが,流路はいずれも高原周辺部にかぎられている。高原は,春,太陽の放射によって地表が急激に熱せられ,大気の下層は低気圧,上空には〈青蔵高気圧〉が発達する。そのため,夏は南東部にインド洋のモンスーンが入り,雨が多くなる。冬は東向きの強いジェット気流の影響を受け,風が強く,乾燥するが,晴天がつづく。また太陽の放射が強く,大気中のCO2などが少ないため,気温は比較的高く,日照時間も長くなる。
チベット高原はさらに,地形,気候,植生などを指標にいくつかの地域に区分できる。北西部は蔵北高原すなわちチャンタン高原である。チャンタンの北部高原は崑崙およびホフシル山脈とその山麓部である。チベット高原ではもっとも寒冷な地域で,高山寒冷地砂漠や厚さ80~120mの永久凍土層がひろがる。チャンタンの南部高原はチベットではもっとも広い地域をしめる。なだらかな波状の高原で,ハネガヤやスゲの類の草原がおおい,牧草となる。数多くの湖沼が発達し,そのほとんどが塩水湖である。冬はこの地域が西風の通り道となり,風が強い。高原の西,チベット最西部はアリ高原である。インダス河上流のセンゲズアンボ河谷盆地やバンゴンツオ(班公湖)地域をふくむ。
本区の南端,カイラス(ガンディセ,岡底斯)山脈の主峰カイラス山(カンリンボチェ,岡仁波斉峰)はヒンドゥー教徒や仏教徒にとって聖地とみなされてきた。しかし,本区はチベット自治区ではもっとも降水量の少ない地域で,年100mm以下となり乾燥し,風砂の害もよくおこる。植生にはハネガヤの類や河谷盆地ではムレスズメの類が多いが,山地性砂漠もひろがっている。チャンタン高原の東はナッチュ(那曲)高原で降水量もやや多くなる。ヒゲハリスゲ,シャクナゲなどの類も増え,草原は発達する。ヤルンズアンボ川の河谷盆地は蔵南谷地である。中流部は川幅もひろく,南のヒマラヤ山脈によって,南からの気流はフェーン効果をもたらすため,雨量は比較的少ない。山地ではヨモギ,チカラシバ,クララなどの類の草原もふえ,植生は豊かになる。高原東部は蔵東高原で,横断山脈の北部,怒江や瀾滄江,金沙江の上流部で,高原の開析はいちじるしい。年降水量も多い。高原東南部の高原斜面やニャラム(聶拉木),亜東などの地域はヒマラヤ南麓地域である。ヤルンズアンボ川などはインド方面に流出する谷地でもあり,もはや気候や植生の上ではチベット高原部共通の性格をほとんどもたず,標高も低くなり,亜熱帯,熱帯の特徴をまし,常緑広葉樹林や熱帯降雨林などがあらわれる。
中華人民共和国成立後,中国政府は領域内の各民族は平等であるという原則のもとに,国内の統一に乗り出した。チベットでは,まず当時の西康省に属していたチャムド(昌都)が戦闘の末,解放された。1951年5月,中央人民政府とチベット地方政府とのあいだで17条からなるチベットの平和解放に関する協定が結ばれた。そこではチベットから帝国主義を駆逐し,チベット人民は中国の大家族に復帰し,ダライ・ラマとパンチェン・ラマの固有の地位と,職務権限を維持し,信仰の自由を保証し,チベット民族の言語,文字,教育を発展させることがうたわれ,民族地域自治の実施が保証された。その成果は,解放軍の協力による川蔵,青蔵自動車道の開通,農具や種子の支給,学校の開設などの経済・文化の向上とともに,それらをさらにチベット族自身によって発展させていくためのチベット自治区準備委員会の発足となってあらわれる。しかし,ダライ・ラマや農奴主の一部は協定の実施に反対し,〈チベット独立〉をかかげ,59年3月反乱を起こした。反乱平定後ダライ・ラマはインドに亡命,ただちに民主改革が行われ,農奴制がようやく廃止されるとともに,土地改革などもすすんだ。
65年9月,チベット自治区人民代表大会が開かれ,チベット自治区が成立した。土地改革のあと各地で互助組ができたが,1960年には一時,農業生産協同組合を停止する通知も出されていたため,自治区成立後ただちに2万余の互助組が結成された。自治区成立の前年から人民公社化が試験的にすすめられ,65-66年,ネトン(乃東)やゴンカル(貢嘎)県などではいくつかの人民公社が成立した。これらはいずれもヤルンズアンボ川中流域の蔵南谷地にある比較的農業の発達した地域で,ゴンカル県では農業生産協同組合も組織されていた。66年,文化大革命が始まり,チベットでも人民公社化にいっそう拍車がかけられた。しかし,ほとんどの地域では互助組から,農業生産協同組合の段階を経ずにいっきょに人民公社に移行した。68年,チベット自治区革命委員会が成立,その後,3年間にほぼ大部分の県で革命委員会ができている。
民主改革後はチベット農業科学研究所や各地の農業試験場,国営農場では冬小麦栽培の実用化に成功している。チベット族の主食ツァンパ()の原料となるため青稞(ハダカムギ)はチベット農業の主体であるが,小麦の単位面積あたり産量が青稞の1.5~2倍あったため,70年代には小麦栽培を徐々にふやし,青稞から小麦へ強制的に転換させることもあった。自治区全体では青稞の作付は全体の50%を割り,蔵南谷地などの農・牧混交区では40%を下がる県もでた。この間,農業の集団化により,水利化がすすみ,灌漑耕地がひろがり,解放軍の援助によって荒れ地の開墾や農具の機械化も行われ,一定の成果をあげたところもある。しかし,多くは農業生産協同組合の段階を経ていないため,農民が土地改革で得た土地や財産としての家畜を供出しても,その分に応じた分配がなされず,労働に応じた分配に直接変わり,農民の不満も残った。革命委員会成立後は,自留地や自留家畜はおさえられ,副業生産は基本的には廃止された。文革中には,〈食糧を要とする〉とのスローガンのもと国や公社は,牧畜業をおさえ,手工業者も農業に従事させられたりした。またチベット仏教の経典や仏像寺院が破壊され,チベット医学や天文学などの資料が放棄されるなど,文化芸術,学術遺産も大きな被害を受けた。
79年8月チベット自治区人民代表大会が開かれた。これは事実上,チベットの〈文化大革命〉の総括の大会でもあった。ここでは〈文革〉終了後の実情も報告され,実態が調査されることとなった。農産物や畜産品には統一買付や供出の割当てがあり,チベット族の食習慣を軽視してなお,小麦栽培を強化していることなどが明らかとなった。中国共産党中央は80年4月〈チベット工作座談会〉ののち,チベットの実際の状況や自然条件から出発し,一律的な指導方法を改めるため,6項目の方針を示した。そこには,民族地域自治の権利を十分に行使し,そのためにはチベットの実情に合わないものは拒否できること,生産隊の自主権を尊重すること,国からのチベットへの援助資金は他の省・自治区より多くなければならないこと,チベット族と漢族幹部は団結を強化することなどがあげられている。これは,自治区成立後1年たらずで〈文革〉が始まり,チベットの新しい民族政策・社会主義化の実施の初歩的段階で混乱がもちこまれたことに大きな原因があり,チベット自治区がまだ民族的な特殊な条件をもち,経済的にもたちおくれていたことを意味している。その後,改革開放体制のもと,人民公社が解体し,家族単位で耕作や牧畜生産を請け負うなど変革がおこなわれている。なお,チベット族はチベットの人口の96%をしめるが,漢族や回族のほか,チベット南東部にロッパ(珞巴),メンパ(門巴)族などが居住している。
蔵南谷地はチベットではもっとも農業の盛んな地域である。雨量は比較的少ないが,灌漑が発達,また日照時間が長いなどのチベット特有の自然条件を利用し,主軸となる青稞やエンドウ,ナタネ,小麦などの栽培を行っている。ヒマラヤ南麓の河谷は温暖温潤で,稲やトウモロコシ,茶などのほかバナナも栽培している。その他,蔵東高原も農業が盛んである。改革開放体制のもと,チベット全体で青稞作付面積は50%以上に回復し,少数民族の需要と自主性は尊重されてきている。牧畜はチベット高原の重要な産業で,チャンタン南部,ナッチュ,アリ高原が中心である。羊をはじめ,ヤギのほか,比較的雨量の多い東部の高原ではヤクの割合がふえる。羊毛は地元で消費,加工するほか,ラサ,ナッチュなどをへて流通している。ラサ市はチベットの工業中心であり,ラサ川のナジム(納金)水力発電所を基礎に,製粉工場や機械修理組立工場などが設けられている。また,ラサ・カーペット工場は伝統的な手法を取り入れ,民主改革後は輸出用にも生産されている。ニンチ(林芝)には毛織物,印刷,木材加工工業などが集中した工業区が形成されている。その他,シガツェ(日喀則)やナッチュにも農具,皮革などの工業があり,いずれも民主改革後建設されたものである。ヤンバジェン(羊八井)やナッチュでは地熱エネルギーを利用した発電所が設けられている。しかし,なおチベット工業は民族手工業の割合が高い。プル()ラシャや衣服などの生活必需品の生産が中心で,郷鎮企業と個人の多角経営による工場も多い。解放後敷設された自動車道はさらにのび,青蔵・新蔵自動車道のほか,ネトン~ニンチ線などが延長され,中尼(中国~ネパール)道路も開通した。西安,成都などへの空路も開かれている。また,1994年からは,ラサ~シガツェ通信用光ケーブルの敷設やリンブン(仁布)県解放用水路など,近代化にむけた60余の開発プロジェクトが進行している。
→チベット
執筆者:駒井 正一
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