フランスの映画監督。2月6日パリに生まれる。少年時代から映画を愛好し、映画批評家アンドレ・バザンの知己を得て、兵役を終えると映画雑誌などに筆をとりながら短編映画の製作を始めた。少年時代の体験に基づく自伝的な長編第一作『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、ついでスリラーもののパロディー『ピアニストを撃て』(1960)、恋愛ものの傑作『突然炎のごとく』(1962)と発表。ヌーベル・バーグのもっとも個性的な作家の一人となった。デビュー作とともに少年ドワネルの成長を追う四部作『二十歳の恋』(1962)、『夜霧の恋人たち』(1968)、『家庭』(1970)のほか、作品は多彩で、『華氏451』(1966)、『黒衣の花嫁』(1968)、『恋のエチュード』(1971)、『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973)、『アデルの恋の物語』(1975)、『トリュフォーの思春期』(1976)、『緑色の部屋』(1978)、『終電車』(1980)などがある。また俳優として自作『野性の少年』(1969)などに出演したほかアメリカ映画『未知との遭遇』(1977)にも出演、1962年には傾倒するヒッチコック監督に延べ50時間に及ぶインタビューを行って対談集『アルフレッド・ヒッチコックによる映画』(1966)を発表、貴重な記録になっている。1984年10月21日癌(がん)のため死去。
[村山匡一郎]
あこがれ Les Mistons(1957)
水の話 Une histoire d'eau(1958)
大人は判ってくれない Les quatre cents coups(1959)
ピアニストを撃て Tirez sur le pianiste(1960)
突然炎のごとく Jules et Jim(1962)
二十歳の恋~「アントワーヌとコレット」L'Amour à vingt ans - Antoine et Colette(1962)
柔らかい肌 La peau douce(1964)
華氏451 Fahrenheit 451(1966)
黒衣の花嫁 La mariée était en noir(1968)
夜霧の恋人たち Baisers volés(1968)
暗くなるまでこの恋を La Sirène du Mississipi(1969)
野性の少年 L'enfant sauvage(1969)
家庭 Domicile conjugal(1970)
恋のエチュード Les deux Anglaises et le continent(1971)
私のように美しい娘 Une belle fille comme moi(1972)
映画に愛をこめて アメリカの夜 La nuit américaine(1973)
アデルの恋の物語 L'histoire d'Adèle H.(1975)
トリュフォーの思春期 L'argent de poche(1976)
恋愛日記 L'homme qui aimait les femmes(1977)
緑色の部屋 La chambre verte(1978)
逃げ去る恋 L'amour en fuite(1978)
終電車 Le dernier métro(1980)
隣の女 La femme d'à côté(1981)
日曜日が待ち遠しい! Vivement dimanche!(1982)
『トリュフォー著、山田宏一・蓮實重彦訳『わが人生・わが映画』『映画の夢・夢の批評』(1979・たざわ書房)』▽『山田宏一・蓮實重彦著『トリュフォーそして映画』(1980・話の特集)』▽『トリュフォー著、山田宏一・蓮實重彦訳『映画術 ヒッチコック』(1981・晶文社)』▽『山田宏一著『トリュフォー ある映画的人生』(1991・平凡社)』▽『山田宏一著『フランソワ・トリュフォー映画読本』(2003・平凡社)』▽『山田宏一著『トリュフォーの手紙』(2012・平凡社)』
フランスの映画監督。映画作家・理論家のアレクサンドル・アストリュックは,トリュフォーを〈愛のシネアスト〉と定義した。トリュフォー自身,彼の映画の〈愛〉のモティーフを〈女と子どもと書物〉だと語っていて,たとえば〈女への愛〉は代表作の一つとされる《突然炎のごとく》(1961)や《恋のエチュード》(1971)や《隣の女》(1981)に,〈子どもへの愛〉は最初の長編であり映画史上稀有(けう)な自伝的シリーズ〈アントアーヌ・ドワネルもの〉の第1作ともなる《大人は判ってくれない》(1959)や《野性の少年》(1969)や《トリュフォーの思春期》(1976)に,〈書物への愛〉は《華氏451》(1966)に端的に表れ,そしてそれらすべてを貫いているのが《アメリカの夜--映画に愛をこめて》(1973)で直接的に表現されていたように,〈映画への愛〉といえる。
パリ生れ。15歳のときにシネクラブ〈ル・セルクル・シネマヌ〉を主宰し,トリュフォー自身が〈精神的な父親〉と呼ぶ映画批評家アンドレ・バザンAndré Bazin(1918-58)と知り合う。バザンのすすめで1951年に創刊された映画批評誌《カイエ・デュ・シネマ》に筆をとり,また週刊誌《アール》の映画批評欄でも,当時のフランス映画の〈名匠〉たちを否定するしんらつな筆をふるって〈フランス映画の墓掘り人〉とあだ名された。58年,ジャン・ルノアール監督の《黄金の馬車(ル・キャロッス・ドール)》から名まえをとった映画製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッスを興し,短編《あこがれ》を発表(以後,作品はすべてこの自分の会社によって製作し,作家の独立性を守った)。つづく《大人は判ってくれない》はカンヌでグランプリを受賞し,同じ年に監督デビューしたジャン・リュック・ゴダール,クロード・シャブロルらと並んで〈ヌーベル・バーグの旗手〉と騒がれた。第3作の《突然炎のごとく》で国際的な名監督という評価が定まり,以後はほぼ1年に1作のペースで作品をつくりつづけ,批評家時代に主張した〈作家の映画〉をみずから実践し〈フランス映画の中でももっとも人間的な共感を感じさせる監督の一人〉となった。
60年代以降のアメリカ映画の若い作家たちに与えた影響は大きく,とくにトリュフォー映画の男たちに共通する〈弱さ〉〈傷つきやすさ〉は,《俺たちに明日はない》(1967)以降のアメリカの〈ニュー・シネマ〉のアンチ・ヒーロー像に移植されたという見方もある(ロバート・ベントンとデービッド・ニューマンによる《俺たちに明日はない》の最初のシナリオは,トリュフォーのために書かれたといわれる)。またスティーブン・スピルバーグは,《野性の少年》でみずから主演して狼少年に人間的なコミュニケーションを教えるイタール教授を演じたトリュフォーの姿に感動し,自作《未知との遭遇》(1977)で,宇宙人とのコミュニケーションをはかるUFO研究学者の役を演じてもらうために,トリュフォーをハリウッドに招いた。
84年,癌で死去。最後の作品は《日曜日が待ち遠しい》(1983)。著書に,尊敬する映画作家アルフレッド・ヒッチコックへのインタビューによる研究《映画術 ヒッチコック/トリュフォー》(1966),映画批評集《映画の夢,夢の批評》《わが人生 わが映画》などがある。
執筆者:宇田川 幸洋
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…1959年製作のフランス映画。ジャン・リュック・ゴダール監督の《勝手にしやがれ》(1960)と並んでおそらく世界的にもっともよく知られた〈ヌーベル・バーグ〉作品で,フランソワ・トリュフォー監督の長編第1作。オーディションで選ばれた14歳の新人ジャン・ピエール・レオーが,トリュフォーの〈分身〉である主人公のアントアーヌ・ドアネルを演じ,以後も,成長しておとなになっていく主人公を年齢とともに演じ続けていくという映画史上稀有(けう)な自伝的シリーズ(《二十歳の恋》(1962),《夜霧の恋人たち》(1968),《家庭》(1970),《逃げ去る恋》(1978)に至るいわゆる〈アントアーヌ・ドアネル物〉)を形づくることになる。…
…58年には14人,59年には22人の新人監督が長編映画の第1作を撮るという,かつてない激しい映画的波動がわき起こり,さらに60年には43人もの新人監督がデビュー,アメリカの雑誌《ライフ》が8ページの〈ヌーベル・バーグ〉特集を組むに至って,世界的な映画現象として認識されることになった。 こうしたフランス映画の若返りの背景には,国家単位で映画産業を保護育成する目的で第2次世界大戦後につくられたCNC(フランス中央映画庁)の助成金制度が新人監督育成に向かって適用されたという事情があるが,その傾向を促すもっとも大きな刺激になったのが,山師的なプロデューサー,ラウール・レビRaoul Lévy(1922‐66)の製作によるロジェ・バディムRoger Vadim(1928‐ )監督の処女作《素直な悪女》(1956)の世界的なヒット,自分の財産で完全な自由を得て企画・製作したルイ・マルLouis Malle(1932‐95)監督の処女作《死刑台のエレベーター》(1957)の成功,そしてジャン・ピエール・メルビル監督の《海の沈黙》(1948)とアニェス・バルダ監督の《ラ・ポワント・クールト》(1955)の例にならった〈カイエ・デュ・シネマ派〉の自主製作映画の成功――クロード・シャブロルClaude Chabrol(1930‐ )監督の処女作《美しきセルジュ》(1958),フランソワ・トリュフォー監督の長編第1作《大人は判ってくれない》(1959),ジャン・リュック・ゴダール監督の長編第1作《勝手にしやがれ》(1959)――であった。スターを使い,撮影所にセットを組んで撮られた従来の映画の1/5の製作費でつくられたスターなし,オール・ロケの新人監督の作品が次々にヒットし,外国にも売れたのであった。…
※「トリュフォー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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