フランスの政治家。共産党指導者。北フランスのパ・ド・カレー県に炭坑夫の子として生まれる。若くして共産党に参加し、同党の内紛にも助けられて1930年には事実上の書記長(正式には1936年から)に就任した。1932年以来代議士でもあった。社会民主主義が当面の主要敵であるとの当時のコミンテルンの方針に忠実であった彼は、1934年、社共統一戦線を主張したドリオを除名した。その直後、コミンテルンの戦術変更を受け入れ、社会党に反ファシズム統一戦線を呼びかけたばかりか、同年秋には急進社会党も含む「パンと自由と平和の人民戦線」を提唱して結局これを実現した。1936年の総選挙ではラジオで「フランス国民の団結」を呼びかけ、共産党の大躍進の原動力となった。こうして同年成立した人民戦線内閣に対し共産党は入閣を拒んだが、同時におこった未曽有(みぞう)の工場占拠ストライキに対しては「すべてが可能ではない」としてこれを鎮静させた。1939年の独ソ不可侵条約ののちコミンテルンが再度方針を変更すると、これに従って第二次世界大戦の初期にフランス軍を脱走し、終戦までモスクワにとどまった。フランス解放後の1944年に帰国した彼は、革命を期待する党員にドゴール臨時政府への協力を呼びかけ、自ら1945年11月第二次ドゴール内閣に国務相として入閣した。翌年のドゴール退陣後もグーアン、ビドー、ラマディエの諸内閣の副首相を務め、冷戦の進展により1947年5月ようやく下野した。1964年5月、ワルデック・ロシェに書記長の地位を譲り、同年7月ソ連に病気治療に赴く途中、ソ連船上で急死した。1937年に初版を出しその後再三内容を改めた自伝『人民の子』のほか、多くの報告、演説を集めた著作集がある。
[平瀬徹也]
『北原道彦訳『人民の子』(1979・大月書店)』
フランス共産党の指導者。パ・ド・カレー県の炭鉱夫の子で,自身も炭鉱夫出身であった。第1次世界大戦後の1919年にフランス社会党に入党,翌年同党が分裂し共産党が成立するとともにこれに参加した。以来しだいに党内で地位を高めてゆき,30年党書記長となり,とくに人民戦線における共産党の指導者として国際的にも名を高めた。第2次世界大戦期,工兵として動員されたが脱走し,43年ひそかにモスクワに赴いた。フランス解放後の44年12月帰国し,当時レジスタンスを通じて勢力を強大化していた共産党の指導にあたった。第四共和政の発足期において人民戦線の延長として民主主義建設のための統一戦線政策をとり,45年11月第2次ド・ゴール内閣に副首相兼国務相として入閣,以後諸内閣に閣僚として参与するが,47年5月下野した。冷戦期からスターリン批判後まで一貫して共産党の指導者の地位を保った。64年その地位を退き,7月ヤルタに向かう船上で急死した。著書に《人民の子》(1937)などがある。
執筆者:加藤 晴康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1900~64
フランスの政治家。炭坑夫の子に生まれ炭坑夫となったが,1919年社会党に入党。社共分裂に際し共産党に参加し,30年書記長に就任,以来30年間以上,その死まで同党の最高指導者の地位を占めた。その間,人民戦線戦術を実践し同党の勢力を飛躍的に拡大させた功績は認められるが,終始スターリン主義に忠実であった。下院議員のほか,45~47年には連立内閣の副首相として入閣した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新