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第四共和政 だいよんきょうわせいLa Quatrième République

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

第四共和政
だいよんきょうわせい
La Quatrième République

1944年6月3日から 1958年10月4日までのフランスの政治体制。第三共和政は第2次世界大戦中フィリップ・ペタン内閣によって廃止され,ビシーに対ドイツ協力政府が樹立された(→ビシー政府)。これに対し,抗独戦を指導していたシャルル・アンドレ・ジョゼフ・マリ・ドゴールは,パリ解放直前の 1944年6月3日,それまでのフランス国民解放委員会を共和国臨時政府と改称した。第四共和政は正式に「宣言」されていないが,この日をもって誕生したとされる。1946年10月に憲法草案が国民投票で承認され,第四共和政憲法が成立した。新憲法は,国民議会,共和国評議会の二院制(両院制)を採用したが,国民議会は絶対的優位を確保,大統領の権限は極度に制限され,首相も大統領から指名されるがあらかじめ議会の指名信任を得たのちでなければ組閣できないとされ,事実上,会議政治的な議院内閣制となった。1958年アルジェリアのアルジェで起こった 5月13日事件によりドゴール内閣が発足(→アルジェリア問題),同 1958年年9月大統領の権限を大幅に強化したドゴールの第五共和政憲法案が国民投票で可決され,10月この憲法の公布とともに第四共和政は終わった。(→フランス史

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百科事典マイペディアの解説

第四共和政【だいよんきょうわせい】

1946年公布の憲法によって成立したフランスの政体。議会の権限が強く小党派が分立した。人民共和派フランス社会党による中道政治に対して共産党やフランス国民連合ド・ゴール派)は批判的で,政局は不安定だった。
→関連項目アルジェリア戦争国民議会フランスフランス共同体フランス連合ミッテランラマディエ

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世界大百科事典 第2版の解説

だいよんきょうわせい【第四共和政】

フランスで第2次世界大戦後に組織された共和政体。大戦下の1944年6月,連合軍に加わって戦ったド・ゴール将軍の権威とフランス国内のレジスタンス勢力の結集を背景に,ド・ゴールを首相とするフランス共和国臨時政府が組織されたが,フランス解放後の45年10月21日,戦後初の国民議会選挙が行われ,また同時に実施された国民投票により,この議会が新しい政体を定める憲法制定議会たることが承認された。なお,この選挙で初めての婦人参政権が実現している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

第四共和政
だいよんきょうわせい
Quatrime Rpublique

フランスの政治体制(1944.9~58.6)。第二次世界大戦末期の1944年8月下旬、自由フランス軍がパリをドイツ占領軍から解放したとき、ビシーにおけるペタン政権は壊走し、対独抵抗運動(レジスタンス)派はそのリーダーであるドゴール将軍の下に9月初旬臨時政府を樹立し、将来の政治体制について国民の審判を待った。45年10月に選出された憲法制定議会は共産党を第一党とし、その影響下に憲法案を作成したが、国民投票で退けられた。ついで人民共和党を第一党とする憲法制定議会が選出され、憲法案が46年10月の国民投票で承認され、第四共和政が憲法史上正式に成立した(政治史的な成立は、ドゴール臨時政府が樹立した44年9月)。しかし棄権は31%に達し、賛成票は有権者の37%にとどまったから、新体制の基盤は狭いものであった。
 この政治体制の憲法的、政治的性格は、議会の両院の名称は別として、戦間期の第三共和政のそれとあまり違わない。首相が内閣を率いて支配する議会制であるが、主権者を代表する国民議会(下院)が内閣に優越し、内閣は絶えず不確かな議会多数派に左右される。やがて第二次世界大戦前の分立的な政党や老練な議会政治家が復帰し、戦前の枠組みばかりでなく、その慣例や手続や駆け引きまで復活してゆく。1954年12月の憲法改正は、内閣の強化をねらったものであったが、事態をさして改善しなかった。国民議会は46年、51年、56年に選出されたが、その多数派は重心をしだいに右寄りへ移す。47年5月までは、対独抵抗運動から現れた共産党、社会党、人民共和党の左翼三党が圧倒的多数派をなしたが、その後は共産党を排除して、急進党や保守派を加えた、いわゆる「第三勢力」が多数派となった(1947~52、1956~58)。体制派は、左の共産党の脅威、右のフランス人民連合の、のちにはプジャード派の攻勢に対して議会制を守らねばならず、そのうえ、多数派自身、私立学校補助金問題、自由主義経済政策、植民地問題などで割れるおそれがあった。多数派を維持するには、現状保守に近い現状凍結戦略を守り、緊要な選択も先送りせざるをえない。これが、悪評を招いたいわゆるイモビリスムimmobilismeである。第三勢力の結集が得られなければ、多数派はさらに右寄りとなる。総じて、その依拠する連合多数派が不安定で一貫性を欠いたので、内閣は弱体で短命となり、基本的政策の選択にも遂行にも活力や一貫性を欠かざるをえなかった。46年12月から58年6月までの約11年半の間に22の内閣が交替し、その平均存続期間は6.2か月の短さであった。
 1956年以降、内閣の危機はアルジェリア問題でいっそう深まった。種々の理由から、外交交渉によらずに武力鎮圧の道を選んだ政府は、体制を、代価の高い、長年にわたる植民地戦争に投げ込んだ。1946年末に始まったインドシナ戦争は、54年5月ディエン・ビエン・フーでの敗北ののち、ようやく急進党のマンデス・フランス首相の洞察と果断によって解決された。彼は北アフリカ問題の交渉による解決を目ざしたが、分立的な議会はこのカリスマ的リーダーを許さず、7か月半で不信任して、怒号のうちに退陣させた。彼の在任中に始まるアルジェリアの反乱は、社会党のモレ首相にフランス史上最大規模の海外派遣軍(50万人)を投入させた。58年5月中旬、本国政府の政策の不徹底に業(ごう)を煮やしたアルジェリア駐留軍と植民者は、クーデターに訴え、パリ政府を追い詰めた。議会のリーダーたちは、体制の防衛を放棄し、ドゴール将軍に権力をゆだねた。国民も議会指導者より彼に期待した。6月1日のドゴール首相信任投票(329票対224票)は、体制の事実上の終幕であった。
 第四共和政は、確かに記憶されるべき成果をもっている。戦後経済を復興し、その近代化を図り、第二帝政以来といわれる経済成長を実現した。ヨーロッパ共同体の基礎を準備し、フランスの安全も確保しえた。にもかかわらず、それは基本的に戦前の体制の復活であり、その弱い政府は市民多数の信頼と期待を確保しえなかったのである。[横田地弘]
『A・ワース著、野口名高・高坂正堯訳『フランス現代史』(1958、59・みすず書房) ▽中木康夫著『フランス政治史 中』(1975・未来社) ▽河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社) ▽渡辺和行・南充彦・森本哲郎著『現代フランス政治史』(1997・ナカニシヤ出版) ▽中山洋平著『戦後フランス政治の実験――第四共和制と「組織政党」1944~1952年』(2002・東京大学出版会) ▽モーリス・ラーキン著、向井喜典監訳、岩村等・太田潔他訳『フランス現代史――人民戦線期以後の政府と民衆 1936~1996年』(2004・大阪経済法科大学出版部) ▽内山敏著『フランス現代史』(岩波新書) ▽渡辺啓貴著『フランス現代史――英雄の時代から保革共存へ』(中公新書) ▽P. Courtier La Quatrime Rpublique (Paris, P.U.F., Coll.《Q.S.J.》, 3e d., 1983)』

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