ドイツ問題(読み)どいつもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ドイツ問題
どいつもんだい

国際秩序のなかにおけるドイツの地位をめぐる問題。狭義には、第二次世界大戦後のドイツの東西分裂と再統一に関する諸問題をいう。第二次世界大戦後、敗戦国であるドイツは、戦時中の連合国間取決め(1944年9月12日の、ドイツ占領地帯および大ベルリンの行政に関する議定書、1944年11月14日の同修正協定およびドイツ管理機構に関する協定、1945年2月11日のヤルタ議定書、1945年5月1日のドイツ管理機構に関する協定)に基づき、米英ソ仏の連合4か国によって共同占領された。西側地帯は米英仏に、東側地帯はソ連に割り当てられ、共同の占領管理機関としてドイツ管理理事会が設置された。ソ連占領地帯内に位置するベルリンもまた4か国により共同占領された(「ベルリン問題」の項参照)。旧ドイツ領のうち、東プロイセンの北半はソ連に割譲され、それ以外のオーデル‐ナイセ川Oder‐Neisse以東の地域は暫定的にポーランドの施政下に置かれた。1945年8月2日のポツダム協定は、ドイツ占領統治の原則として、非軍事化、非ナチ化、経済力集中の排除および民主化について定めた。[深谷満雄]

東西の分裂

しかし連合国間の関係が戦時中の協力から、戦後秩序のあり方をめぐる東西の対立へと変わるにつれて、やがてドイツの秩序もまた東西へ引き裂かれた。西側3占領地帯は早くも1948年に一体としてマーシャル・プランに組み込まれ、一方東側地帯では資本主義から社会主義への移行が準備された。この間西側地帯では、経済の民主化がサボタージュされ、独占的大企業復活の素地がつくられたことが注目されよう。1949年の東西両ドイツ国家(西のドイツ連邦共和国および東のドイツ民主共和国)の成立、1955年における両ドイツそれぞれの主権回復措置および西ドイツのNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)加盟ならびに東ドイツのワルシャワ条約機構加盟により、ドイツの分裂は決定的となる。
 この過程で西ベルリンは東ドイツ領内に取り残され、ポツダム協定で暫定的なものとして定められたオーデル‐ナイセ国境線は、事実上、東ドイツとポーランドとの国境となった。したがって戦後東西間では、とくにベルリンおよびオーデル‐ナイセ線の地位をめぐって争われたが、その前提として、さらに東西両ドイツ国家の正統性の問題が加わることになる。西ドイツは1960年代末期まで国家としての東ドイツの存在を認めず、いわゆるハルシュタイン・ドクトリンを適用した。しかしソ連側からすれば、東ドイツこそポツダム協定に基づく民主主義的諸原則がドイツにおいて忠実に適用されている唯一の国家であった。[深谷満雄]

再統一の方式

「ベルリン問題」については別項に譲るとして、オーデル‐ナイセ線について問題となった点は、あくまでもその暫定性を固執するか、それともオーデル‐ナイセ線以東の地域のポーランドへの割譲を最終的に認めるかということである。ソ連は一貫して後者の立場を要求し、東ドイツも成立早々「平和の国境」とよんでこの国境線を承認した(1949年11月12日のグロテボール首相声明)。1945年11月20日ドイツ管理理事会が採択した計画に従ってオーデル‐ナイセ線以東の地域に住む約200万のドイツ人が1948年末までにドイツのソ連占領地帯またはイギリス占領地帯へ移送され、かわって約450万のポーランド人が同地域に再定住した事実を考えると、この立場は妥当なものといえよう。
 ドイツ分裂後も再統一問題がドイツの国民的テーマであったことはいうまでもなく、再統一の方式として西側は早くから「自由選挙によるドイツ統一」を主張し、一方東側は「東西両ドイツの接触によるドイツ統一」を主張した。後者の立場は、ドイツ再統一があくまで東西ドイツ同権の立場から行われるべきだとする認識に基づいており、一方前者の立場は、東ドイツの社会主義的体制を清算し、統一後のドイツが西側と同じ対外政策方向をとることを予想するものであった。さらに敷衍(ふえん)するならば、1960年代なかばまで、再統一に対する西ドイツの立場は、西側が力を蓄えることによってのみ、東側に統一を強いることができるとする「力の立場」であった。[深谷満雄]

ブラント政権の成立

1969年10月西ドイツにおけるブラント政権の成立は、ドイツをめぐる東西関係に大きな転機を画した。ブラント政権の「東方政策」の大きな特徴は、戦後の領土的現実を直視し、この前提のうえに東西関係の打開を図ろうとしたことである。この政権は、まず1970年8月ソ連と、ついで同年12月ポーランドとそれぞれ「モスクワ条約」「ワルシャワ条約」を結んで、オーデル‐ナイセ国境線の尊重を約束した。ブラント政権によるオーデル‐ナイセ線の事実上の承認がいかに重要な意味をもったかは、それまでの、アデナウアーからキージンガーに至る西ドイツ歴代政権が、オーデル‐ナイセ問題に対する否定的態度のため、ソ連・東欧諸国から報復主義的、軍国主義的との非難を浴びてきたことによって明らかである。またこの政権は、西ドイツ政権として初めて、東ドイツを、国際法的にではないが、国家として承認した。こうしてここに、両ドイツ間に関係「正常化」の前提がつくられ、1972年12月東西両ドイツ基本条約が結ばれるのである。[深谷満雄]

統一までの経緯

基本条約締結後、東西両ドイツはそれぞれ独立的な国家として1973年9月、国際連合に加盟し、また、1975年ヨーロッパ安全保障協力会議最終文書「ヘルシンキ宣言」に署名した。こうして東西ドイツの並存状態はそのまま長期にわたって継続すると思われたが、1989年から1990年の東欧の「変革」により、ドイツの情勢もまた急速な「転換」を迎えることになった。ドイツ分断を長年にわたって象徴してきた「ベルリンの壁」は1989年11月潰(つい)え、以後「統一」がドイツ国民の大多数の合いことばとなった。1990年3月東ドイツでの自由選挙の実施、同年7月の両ドイツ間「通貨・経済・社会同盟」、8月末の「統一条約」締結を経て、9月12日、「ドイツ統一に関する最終的規制条約」が米英ソ仏および東西ドイツの6か国によって調印された。同条約は、「ドイツ国民が…ドイツの国家的統一を回復する意思を表明したことを認め」たうえで(前文)、次の諸点を規定した。(1)統一ドイツ(東西ドイツと全ベルリン)は将来も他国に対して領土要求を行わない(第1条)、(2)統一ドイツは核、生物および化学兵器の製造、保有、使用をしない(第3条1項)、(3)統一ドイツは3年ないし4年以内に兵力を37万人にまで削減し、一方ソ連軍は4年以内に現在の東ドイツ領域およびベルリンから撤退する。米英仏はソ連軍が駐留する間、ドイツが希望すれば引き続き軍隊をドイツに駐留させることができる(第3条2項―第5条)、(4)ドイツには同盟、つまりNATOに所属する権利がある(第6条)、(5)米英ソ仏の4か国はドイツおよびベルリンに関するその権利と責任を終わらせ、統一ドイツは完全な主権を享有する(第7条)。
 米英ソ仏の4か国はさらに1990年10月2日、ドイツとベルリンに関する4か国的権利と責任の停止を宣言し、翌10月3日東西ドイツの統一が実現した。
 こうしてドイツは45年ぶりに主権と統一を回復したが、単に両ドイツが国家的統一を遂げたというだけであって、これによって戦後の「ドイツ問題」が消えてなくなったわけではない。いまやドイツは政治的・経済的に影響力をもつ大国であり、ヨーロッパの安定と秩序にかかわる基本問題としての「ドイツ問題」は依然として存在する。今後この問題のゆくえが注目されよう。[深谷満雄]

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