日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ヨーロッパ安全保障協力会議
よーろっぱあんぜんほしょうきょうりょくかいぎ
ヨーロッパの安全保障とヨーロッパ諸国間の協力について討議するため、アルバニアを除く全ヨーロッパの33か国およびアメリカとカナダを加えた計35か国が参加し、1975年7月30日から8月1日までヘルシンキで開催された政府首脳の国際会議。
その背景には、西ドイツ・ソ連条約(1970年8月)、西ドイツ・ポーランド条約(1970年12月)、ベルリン4国協定(1971年9月)、東西両ドイツ基本条約(1972年12月)と進行した1970年代初めにおける東西間のデタントの情勢があり、ソ連をはじめとする東ヨーロッパ諸国の立場からは、上記諸条約で規定されたヨーロッパにおける領土的現状の承認を、アメリカをはじめとする西側諸国にも認知させる意味合いをもっていた。そしてこの基礎のうえに、全ヨーロッパ諸国間の協力を確保し、ヨーロッパの安全保障を実現しようと意図したのである。
会議の最終日に採択された最終文書(ヘルシンキ宣言)は、その冒頭で、国家主権の尊重、武力不行使、国境の不可侵、領土保全、紛争の平和的解決、内政不干渉、人権と基本的諸自由の尊重を含む10の原則を掲げ、さらにその第1部で、政治的緊張緩和を軍事的緊張緩和の措置で補うべきこと、第3部で人道的文化的領域の協力をうたっている。また最終文書第4部では、本会議によって開始された相互関係を継続し、「会議で宣言された義務の履行などについて意見交換を続行する」ため、会議結果の検討会議を開催すべきことを規定している。
こうしてこの会議は、その規模といい取り上げられた問題の広範さといい、第二次世界大戦後の東西関係史におけるきわめて重要な会議であったとみなすことができるが、その後、西側諸国からは東側諸国に対して人権無視や自由束縛の非難が繰り返されるなど、ヘルシンキでの決定と成果は、十分に生かされなかった。事実、1977年10月4日~1978年3月9日のベオグラード会議以後の再検討会議においても、以上の点の応酬や、軍縮への誠意のなさ、他地域への介入(たとえばソ連によるアフガニスタン介入)についての非難が中心になっていた。
しかし、1980年代なかばのソ連におけるゴルバチョフ政権登場、同1980年代末の東ヨーロッパにおける自由主義的「変革」以後情勢は変わった。1990年11月21日、会議の34か国首脳は「パリ憲章」に調印し、冷戦の終結を宣言した。またこのとき、ヨーロッパ安定化装置としてこの会議を機構化することも決まり、アルバニア(1991年6月)、バルト三国(同年9月)、およびかつてソ連を構成したCIS(独立国家共同体)諸国(1992年1月)の加盟を経て、1995年にその名をヨーロッパ(欧州)安全保障協力機構(OSCE)と改めている。
[深谷満雄]