日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルリン問題」の意味・わかりやすい解説
ベルリン問題
べるりんもんだい
ベルリンは第二次世界大戦終了までの約4分の3世紀間、ドイツ帝国の首都としての地位を享受してきた。大戦末期ベルリンはソ連軍の単独占領の下に置かれたが、ドイツ全土の共同占領について定めた大戦中の連合国間取決め(「ドイツ問題」の項参照)に基づき、ソ連占領地帯内に位置するベルリンもまた、戦後は米英ソ仏4国によって共同占領された。西側地区は米英仏3国に、東側地区はソ連に割り当てられ、共同の管理機関として連合国管理委員会Kommandaturaが設けられた。しかしその後、冷戦として知られる東西の対立が進み、米英仏3国が占領する領域内での西ドイツ国家樹立の方向が強まるにつれ、これと並行して、ベルリン自体においても分裂の過程が進行した。戦後のベルリン問題とは、このベルリンの地位をめぐる問題をさす。
1948年のベルリン封鎖を機に管理委員会は4国共同管理機関としての機能を失い、市もまた行政的に東西に分裂した。東西両ドイツの成立とともに、東ドイツ(ドイツ民主共和国)は、ベルリンが民主共和国の首都であることを宣言し(民主共和国憲法第1条)、他方西ドイツ(ドイツ連邦共和国)は、その基本法(=憲法)がベルリンにも適用されることを主張した(基本法第23条)。東ドイツおよび同国を支持するソ連の立場からすれば、東ドイツが社会主義国として成立したのちもなお東ドイツ領内に、西側と体制を同じくし、かつ西側軍隊の駐留する西ベルリンが存在することはきわめて異常な事態である。このためソ連は58年11月、西ベルリンを非武装自由都市とすることを提唱し、翌59年1月の対独平和条約草案においても同様趣旨の提案を行ったが、西側3国は西ベルリン住民に対する「責任」の名の下にこれを受け入れなかった。61年8月、西側諸国による「扇動活動の道を閉ざし」、西ベルリン周辺で「信頼に足る監視と有効な管理が保障される秩序を導入する」との東ドイツ政府決定に基づき、東西ベルリン境界には「ベルリンの壁」が構築された。
このように、ほぼ1960年代末まで、ベルリンをめぐって東西関係は緊張を続けたが、69年10月における西ドイツ・ブラント政権の登場は、ベルリン情勢を改善するのに大いに役だった。この政権が、戦後ヨーロッパの領土的現状を承認する東方諸条約をソ連およびポーランドと結んだことにより、71年9月3日には米英ソ仏4国間にベルリン協定が成立した。協定の内容は、一定の条件つき(たとえば西ベルリンで大統領選出のための連邦会議を開催しない、など)ながら、西ドイツが西ベルリンとの結び付きを維持し、西ベルリンを対外的に代表することにつき、ソ連が了解を与えたものになっている。続いて結ばれた71年12月の東西ドイツ間および東ドイツ・西ベルリン間の細目協定で、61年以来東ドイツ政府により実施されてきた西ベルリンの出入りならびに東西ベルリン交通に関する規制は大幅に緩和された。しかし、4か国共同管理が行われないまま、東ベルリンにはソ連軍が、西ベルリンには西側3国軍隊が駐留するという状態は、少なくとも西ドイツ国家による東ドイツ国家の事実上の吸収という形でのドイツ統一が実現する90年10月まで続いた。ベルリンの地位をめぐる東西の対立は、国際緊張の重要な一因であった。
[深谷満雄]