ドイツの政治家。ケルン生まれ。弁護士出身。1906年中央党に入党し、1917~1933年ケルン市長。この間1917~1918年プロイセン貴族院議員、1920~1933年プロイセン枢密院議長を務めた。当時、ライン地方のプロイセンからの分離を主張し、また中央党指導者として一時はブリューニングと首相の地位を争うなど政治的に大きな影響力をもった。1933年ナチ政権成立とともにケルン市長職およびいっさいの官職を奪われ、1944年には、ヒトラー暗殺未遂事件(七月二〇日事件)との関連で短期間投獄された。1945年アメリカ軍のケルン占領とともに一時ケルン市長に返り咲き、同年キリスト教民主同盟(CDU)の創設に参加し、1946年イギリス占領地区CDUの総裁に選出された。1948年米英仏占領地区における議会的協議会(制憲議会)の発足とともにその議長を務め、1949年ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の初代首相に就任した。「アデナウアー時代」とよばれる治政の14年間、一貫して親米・反共の姿勢をとり、アメリカの援助を得て西ドイツを経済的、軍事的に復興させるとともに、その国際的地位の確立に努め、またフランスその他西欧諸国に対しては協調政策を推進した。しかし、旧ソ連その他東側諸国に対しては「力の立場」を崩さず、このため東側諸国からは「報復主義者」とよばれた。1963年首相を辞任し、1966年CDU総裁も辞任した。
[深谷満雄]
『佐瀬昌盛訳『アデナウアー回顧録Ⅰ・Ⅱ』(1968・河出書房新社)』
ドイツの政治家。ケルン市長を務め(1917-33),ワイマール共和国時代には,連合国管理下にあったラインラントの自立回復に努力した。ナチス政権下では冷遇され,第2次大戦末期に一時ゲシュタポに逮捕されたこともある。戦後,キリスト教民主同盟(CDU)の創設に参加,党首となり,1949-63年,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)首相として戦後の再建に指導的役割を果たした。冷戦下にアメリカとの結合を強化し,NATOへの参加などを通じて国際的地位を高めるいっぽう,国内では保守体制を維持した。50年代の与党の絶対多数を背景にした彼の統治は,その個人的影響力の強さから〈首相民主主義〉と評され,また外交重視の政策は内政面での批判を招いた。
→キリスト教民主・社会同盟
執筆者:木村 靖二
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1876~1967
ドイツの政治家。1917年ケルン市長となるが,18~23年にはフランスの支持を受けラインラントの分離運動に従事した。33年市長の地位をナチスに追われ,以後2回逮捕されるが,いずれも釈放された。ナチス崩壊後,キリスト教民主同盟を創立し党首となる。憲法制定会議では議長を務め,ドイツ連邦共和国の成立とともに首相(在任1949~63)となり,西ドイツ建国期の内外政を指導した。彼は西ヨーロッパ諸国との結合を強化することで西ドイツの地位を高めようとしたから,東西ドイツ統一を困難にするとの批判を招き,この矛盾のなかで63年引退した。
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…47年マーシャル・プランによる援助開始と48年6月の通貨改革は50年代の旧西ドイツ経済復興の原動力となるが,同時に東西の対立を深める一因ともなった。49年5月ドイツ連邦共和国基本法Grundgesetz(憲法)が制定され,8月には最初の総選挙が行われ,9月になって第1次アデナウアー内閣が成立する。 旧西ドイツの大統領が象徴的に国家を代表するのに対して,政治の実権は首相(宰相)Bundeskanzlerが握ることになった。…
※「アデナウアー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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