オーストリアの物理学者、数学者、天文学者。ザルツブルクの生まれ。その優れた数学的才能を認めた天文学者スタムファSimon Stampfer(1790―1864)の勧めで1822年にウィーン工科学校へ入学した。しかしその授業内容に飽き足らず郷里に戻って独学した。1835年からプラハの中学校の数学教師となり、1841年プラハ国立工科大学の数学教授についた。この在職中に音響現象と光学現象を研究し、観測者と振動源との相対運動によって振動数が変化することを詳しく調べた。「ドップラー効果」として有名なこの現象は、1842年に発表された著書『二重星の多色光と天体のその他いくつかの光の多色光について』Ueber das farbige Licht der Doppelsterne und einiger anderer Gestirne des Himmelsのなかで正しく解析されている。ドップラー効果の数学的解析の正しさを検証するため、1845年にユトレヒトでボイス・バロットにより一つの実験が行われた。それは、蒸気機関車がトランペット奏者を乗せた無蓋(むがい)貨車をさまざまな速度で引いて通過し、正確に音程を聞き分けられる音楽家が、近づいたり遠ざかったりするトランペットの音の高さを記録するというものであった。この実験で、音に対してはドップラーの公式が成り立つことが判明したが、光に対するドップラーの説明はかならずしも正しくはなかった。光に対しての正しい認識は1848年フィゾーによって行われ、その後の天文学で重要な役割を果たすこととなった。ドップラーは1850年にウィーン大学教授となり、オーストリアに最初に設けられた実験物理学講座を担当した。
[田中國昭]
オーストリアの物理学者。ザルツブルクに石工の息子として生まれたが,病弱であったため石工になることをあきらめ,1822年から4年間ウィーンの工芸学校に通った。35年にはアメリカ移住を決意してミュンヘンまでいったが,結局プラハの州立中等学校の数学と会計学の教授職につき,その後41年には,プラハの国立工業大学に移り,基礎数学と実用幾何学の教授となった。42年に,《二重星と若干の他の天体の色光について》と題する論文を発表し,その中で観測される波の振動数が,波の伝搬する媒体に対する波源の運動や観測者の運動に関係すること,すなわちドップラー効果の存在を明らかにし,さらに46年の論文では,波源と観測者双方が同時に運動する場合へ拡張した。音に関するドップラー効果の検証は,1845年にオランダのバイス・バロットChristoph Hendrik Diederik Buys-Ballot(1817-90)がユトレヒトで,トランペッターをのせた機関車を使用して行った。一方,光に関しては,その本格的な検証は適当な分光器が開発される時期まで待たねばならなかった。50年にウィーンに戻ったドップラーは,ウィーン大学実験物理学教授となったが,52年肺を病んでベネチアに転地,翌年その地で死んだ。
執筆者:日野川 静枝
オーストリアのフルート奏者,作曲家,指揮者。レンベルク(現,ウクライナのリボフ)に生まれ,13歳のときウィーンでデビュー。弟のカールとともに演奏旅行を行った後,ハンガリーのペストに移り,管弦楽団で首席フルート奏者を務め,オペラを作曲。1865年よりウィーン音楽院でフルートを教えた。代表作《ハンガリー田園幻想曲》は,とくに日本に愛好者が多い。弟カールKarl(Károly)Doppler(1825-1900)もフルート奏者,作曲家,指揮者として知られ,おもにハンガリーで活動し,1865年から98年にはシュトゥットガルトで宮廷楽長を務めた。
執筆者:坂崎 紀
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