チェコスロバキアの作曲家、教育者。スメタナとともにチェコ国民音楽を築き上げた巨匠。
1841年9月8日、プラハの北30キロメートルの小村ネラホゼベスで宿屋と肉屋を営む貧しい家の14人兄妹の長男に生まれる。早くから音楽の才能を示したが、13歳から2年間、家業を継ぐためにズロニツェで肉屋の見習いをする。その間にアントニーン・リーマンにドイツ語をはじめ、バイオリン、ピアノ、音楽理論を学び、彼の勧めと叔父の経済的援助のおかげで音楽の道へ進むことを父に許された。1857年秋から2年間、プラハのオルガン学校(後のプラハ音楽院)で学ぶかたわら、サンタ・チェチーリア協会のオーケストラでビオラを受け持ち、ワーグナーの音楽に触れて強く啓発される。
1860年代に貧困と戦いながら室内楽や交響曲を書き始め、1866年にチェコ国民音楽のもう1人の担い手スメタナのオペラ『売られた花嫁』の初演などに触発されて、オペラを手がけるが成功せず、混声合唱とオーケストラ用賛歌『白山の後継者たち』(1873年初演)によりプラハで有名になる。1873年にアルト歌手アンナ・チェルマーコバーAnna Cérmákováと結婚、1875年にはオーストリアの国家奨学金を得て、その審査員の1人ブラームスの推挙により管弦楽作品『スラブ舞曲』第1集(1878、原曲はピアノ連弾用)などがベルリンのジムロックの手で出版され、国際的に名を知られ始める。この時期に幼い子供3人の死にあい、その悲しみを込めた教会音楽『スターバト・マーテル』(1877年完成)は、1880年に初演され成功をみた。
1880年代、ドボルザークが40歳に入ったころ一つの転機が訪れる。プラハ生まれのドイツ人音楽評論家ハンスリックからドイツ・オペラを作曲するよう勧められ、国際的なオペラ作曲家の道か、スラブの民族運動の路線に沿った作曲家になるか悩んだすえ、結局、後者を選び、序曲『フス教徒』(1883)などの一連の愛国的な作品を書いている。しかしその間、オペラ『ディミトリ』も作曲、そのプラハにおける初演(1882)は成功を博し、晩年のスメタナの名声を脅かした。
スメタナの没した1884年、43歳のとき、初めてロンドンに旅行し、自作を指揮した数々の演奏会で大成功を収めたのをきっかけに、彼の名はヨーロッパを風靡(ふうび)することになる。以後、彼はたびたびロンドンを訪れているが、いずれも大きな成果をあげた。第1回ロンドン旅行ののち、同年プラハ郊外のビソカー村に別荘を構え、静かな田園生活のなかで創作にいそしみ、50歳にかけて創作の頂点を迎える。管弦楽作品『スラブ舞曲』第2集(1886~1887、原曲はピアノ連弾用)、交響曲第8番(1889)、ピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」(1890~1891)、オペラ『ジャコバン党員』(1887~1888)など、スラブ色の濃い作品がこの時期に多数作曲された。オラトリオ『聖ルドミラ』(1886年初演)、『レクイエム』(1891年初演)はいずれもイギリスで初演されている。また、1891年からはプラハ音楽院の教授に就任している。
1892年秋、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者ジャネット・サーバーに招かれて渡米、1895年春まで院長を務めた。このアメリカ時代、彼は新大陸の自然を知り、黒人霊歌や民謡、インディアンの音楽に積極的に触れることによって、1893年、終生の名作、交響曲第9番「新世界から」が生まれ、また同年夏チェコ移民村スピルビルで過ごした経験から、弦楽四重奏曲第12番(通称「アメリカ」)が作曲された。また、チェロ協奏曲ロ短調(1894~1895)もこの時代の作品である。
プラハに帰国後、1901年初演のオペラ『ルサルカ』で揺るぎない成功を収め、同年プラハ音楽院長、ウィーンの終身上院議員となり、60歳の誕生日もにぎにぎしく祝われた。しかし最後の作品、オペラ『アルミダ』は1904年3月に初演されたものの不成功に終わった。このころから身体を壊した彼は、同年5月1日、脳卒中で急死した。享年62歳。
[船山信子]
ドボルザークは、19世紀中葉に興隆した民族運動のるつぼのなかで、17歳年上のスメタナと並び、チェコ国民音楽を確立した作曲家である。スメタナがオペラや交響詩の領域に優れていたのに対して、彼は交響曲、室内楽、宗教音楽の領域で国民音楽に貢献した。多作家であらゆるジャンルの作品を数多く残しているが、モーツァルトやシューベルトに似て、ほとばしり出る楽想に身をゆだねるタイプで、どれも傑作であるというわけではない。
オペラは11曲ある。宗教曲のなかでは『スターバト・マーテル』やオラトリオ『聖ルドミラ』が傑出している。歌曲も彼が好んだジャンルで、50曲ほど残している。とくに歌曲集『ジプシーの歌』(1880)の第4曲「わが母の教えたまいし歌(お母さんが私に歌を教えてくれたとき)」は、その深い叙情によって広く知られている。9曲ある交響曲のなかでは、第9番「新世界から」(第1~4番に作品番号がないため第5番とされていたことがある)が古今東西の名曲の一つに数えられるが、むしろ第8番にこそ彼の清澄な作風の最良のものがみいだせる。室内楽には、前述の作品のほか、ピアノ五重奏曲(1872)、管弦楽曲には『三つのスラブ狂詩曲』(1878)などがある。また、バイオリン曲として親しまれている『ユモレスク』はピアノ曲『八つのユモレスク』(1894)の第7番変ト長調を編曲したものである。
[船山信子]
『G・エリスマン著、福元啓二郎訳『ドヴォルジャーク』(1975・音楽之友社)』▽『K・V・ブリアン著、関根日出男訳『ドヴォルジャークの生涯』(1982・新時代社)』
オーストリアの美術史学者。チェコスロバキアのラウドニツ生まれ。プラハの大学、ウィーン大学、またオーストリア歴史研究所などで学び、ウィクホフ、リーグルらの後を継いでウィーン大学教授となる。美術史学におけるいわゆるウィーン学派の流れをくみ、おもに中世およびルネサンス美術を専攻し、実証的な様式研究に基づく美術史を、一般精神史との関連のうちに位置づけようとした。46歳の若さで心臓発作のため急逝。主著『精神史としての美術史』(1924)や『イタリア・ルネサンス美術史』(1927)などは、生前発表された主要な論文やウィーン大学での講義の草稿をまとめたものである。
[鹿島 享]
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