ドボルジャーク

百科事典マイペディア 「ドボルジャーク」の意味・わかりやすい解説

ドボルジャーク

チェコの作曲家。ドボルザークともいう。プラハ近郊の宿屋兼肉屋の長男として生まれ,父の反対を押し切ってプラハに上京,オルガン学校を苦学して卒業。小楽団のビオラ奏者として生計を立て1866年プラハ国民劇場の仮劇場指揮者に就任,スメタナ薫陶を受ける。1878年,ブラームスの紹介で管弦楽曲スラブ舞曲》第1集をベルリンで出版,一躍名声を高めた。40代半ばから創作力は最盛期を迎え,また英国,ロシアなど諸外国を訪れて熱列な歓迎を受けた。1891年プラハ音楽院教授となり,のちの院長(1901年−1904年)時代をふくめ,スーク,V.ノバーク〔1870-1949〕ら多くの音楽家を育成した。1892年−1895年には新設のニューヨーク国民音楽院の院長に招かれて滞米,《交響曲第9番・新世界から》(新世界交響曲),《弦楽四重奏曲第12番・アメリカ》(ともに1893年),《チェロ協奏曲》(1895年)などの名作を発表。スメタナを継ぐチェコ国民楽派の作曲家で,その音楽にはドイツ・ロマン派の諸様式とチェコの民俗音楽の語法の高度な融合がみられる。代表作にはほかに,《弦楽セレナード》(1875年),オラトリオスタバト・マーテル》(1876年−1877年),《ピアノ五重奏曲》(1887年),《交響曲第8番》(1889年),オペラ《ルサルカ》(1900年)などがある。《真昼の魔女》など4つの交響詩(いずれも1896年)の精妙な書法はヤナーチェクにも影響を与えた。→ヨアヒム
→関連項目イングリッシュ・ホルンキリスト教音楽交響詩スタバト・マーテルスメタナ弦楽四重奏団チェロレクイエム

ドボルジャーク

オーストリア美術史家。ラウドニッツ生れ。1909年ウィーン大学の教授に就任し,ウィーン学派の重鎮として活躍。美術史を,単に作品の形式的な展開としてでなく,社会史的・精神史的観点から把握(はあく)しようとした。主著に《精神史としての美術史》(1924年)などがある。
→関連項目ザクスルゼードルマイヤーフライマニエリスム

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改訂新版 世界大百科事典 「ドボルジャーク」の意味・わかりやすい解説

ドボルジャーク
Antonín Dvořák
生没年:1841-1904

チェコの作曲家。モルダウ河畔の寒村の宿屋兼肉屋の長男として生まれ,父親の意志に逆らって16歳の年プラハに出,オルガン学校を苦学して卒業。20歳の1861年から室内楽の大曲を,65年から交響曲を書き始め,73年愛国的な混声合唱管弦楽のための賛歌《ビーラー・ホラの後継者たち》(1872)で新進作曲家として認められる。その間ビオラ奏者やオルガン奏者をして食いつないでいたが,75年から5年間連続して当時の宗主国オーストリアの政府が若い芸術家に出していた奨学金を得,作曲に専念できるようになった。また,その選考委員をしていたブラームスの紹介でベルリンの音楽出版社ジムロックから出した管弦楽のための《スラブ舞曲》第1集(1878)が大好評を博し,国際的にも認められた。40代半ばから50歳ごろにかけて作曲家としての最盛期を迎え,《スラブ舞曲》第2集(1887),《ピアノ五重奏曲イ長調》(1887),《交響曲第8番》(1889),ピアノ三重奏曲《ドゥムキー》(1891)などが次々と生まれた。92-95年ニューヨーク国民音楽院の院長に招かれて渡米し,その間に最後の交響曲となった《交響曲第9番(新世界から)》(1893),《弦楽四重奏曲第12番(アメリカ)》(1893),《チェロ協奏曲ロ短調》(1895)など,アメリカの黒人の音楽語法とチェコの民俗音楽の語法とを同居させた親しみやすい名曲を書いた。帰国後1901年にプラハ音楽院の院長とオーストリアの終身上院議員になり,独立回復前のチェコの芸術家としては最高の栄誉を受けた。死に際しては国葬が行われた。

 ワーグナーの和声法やブラームスの形式構成・主題労作など,ドイツ音楽に学んだ技法と民俗音楽の語法とを融合し,スメタナが創始したチェコの国民楽派の作品が国際舞台に進出する糸口を開いたのがこのドボルジャークで,聞き手の郷愁をそそる旋律の美しさにも特色があった。作品は200を超えるが,弦楽四重奏曲15曲などを含む室内楽が最も重要。9曲の交響曲,教会音楽やオラトリオのたぐい,歌曲,協奏曲などがそれに次ぐ。オペラも《ルサルカ》(1900)などを残した。

 プラハ音楽院の教え子にスークがおり,エルベンの民俗詩を標題とした四つの交響詩(ともに1896)などでヤナーチェクにも影響を与えた。
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ドボルジャーク
Max Dvořák
生没年:1874-1921

チェコ出身のオーストリアの美術史家。日本ではドボルシャックとも表記する。1909年ウィックホフF.Wickhoffの後任としてウィーン大学教授となるが早世。没後刊行された著作中《精神史としての美術史》(1924)はことに有名で,その表題が示すように美術作品を一般精神史の表出と考え,ウィックホフと並び美術史上の〈ウィーン派〉の代表者と目される。グレコやブリューゲルの芸術に関連しマニエリスム研究の先鞭をつけたことでもよく知られている。ほかに《イタリア・ルネサンス美術史》2巻(1927-28)などの著書がある。
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世界大百科事典(旧版)内のドボルジャークの言及

【アメリカ音楽】より

…また,ドイツ風の教育を受けながら国際的名声を博した作曲家にE.A.マクダウェルがいる。教育界ではオバーリン音楽院が65年に創立,85年にはナショナル音楽院が創立され,ドボルジャークが招聘された。ドボルジャークの渡米は,インディアンやニグロの民族音楽に対する関心を喚起し,民族主義的な作曲の流れが1920年ころまでつづいた。…

【ドゥムカ】より

…19世紀後半のポーランドや西ウクライナの民謡収集家(コルベルクOskar Kolberg(1814‐90)など)が農民の不幸な運命を歌った抒情的民謡を一般にドゥムカと呼ぶようになった。器楽曲ではF.リストのピアノ曲《ボロニンツェの落穂拾い》(1848)が早い例であり,ドボルジャークはピアノ曲《ドゥムカ》作品35(1876)と12(1884?)や《ピアノ三重奏曲ホ短調》(1891)などに広く用いている。その流れを汲んで,チェコではヤナーチェク,スーク,ノバークVitězslav Novák(1870‐1949)らもこの曲名を用いている。…

【美術史】より

A.リーグルは,《様式の問題》(1893)や《晩期ローマ工芸美術論》(1901)において対象を西欧以外の工芸の分野にまで一挙に拡大するとともに,文様の発展の法則を探り,H.ウェルフリン(《美術史の基礎概念》1915)やH.フォシヨン(《形体の生命》1934)は,様式分析とその展開の跡づけのためのきわめて有効な方法論を提出した。他方,É.マールの図像学的研究,M.ドボルジャークの精神史的研究,A.ワールブルク,E.パノフスキーのイコノロジー研究(図像学)は,作品の思想的,寓意的,象徴的意味を解読することにより,時代の精神的風土とのつながりを明らかにしようと試みた。このような多面的傾向は,第2次大戦後もさらに強まり,心理学,社会学,文化人類学など,隣接諸科学の方法と成果を取り入れた美術史研究が盛んに続けられている。…

※「ドボルジャーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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