ルネサンス美術(読み)ルネサンスびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「ルネサンス美術」の意味・わかりやすい解説

ルネサンス美術 (ルネサンスびじゅつ)

15~16世紀にイタリアを中心に展開された美術の総称。

ルネサンスrenaissanceとは〈再生〉を意味するフランス語で,J.ミシュレ(1867)およびJ.ブルクハルト(1860)によって,15~16世紀のヨーロッパにおける文化史上のエポックを指す概念として用いられ,今日もまたそのように用いられている。この語および概念は,本来イタリア語の〈リナッシタrinascita〉(〈再生〉の意)に由来するもので,その源はダンテの《新生》《神曲》などの作品中にすでに現れ,古典古代の文芸およびそこに含まれた思想を現代(すなわち14世紀)に復興しようとするペトラルカ,ボッカッチョら文人たちの著作によって明確にされた。彼らは古代ローマの文人の思想を再生させようと自ら試みる一方,14世紀の画家ジョットが,中世の間,死に絶えていた芸術を再生させたと記し,造形芸術においてまず明らかな古代の復興があったとする歴史観を示した。この場合,ジョットは,古代彫刻のもつ人間らしさ,自然らしさを取り戻したという意味において,抽象的・伝統的・約束的形式によって作られたゴシック美術およびビザンティン美術と対比されており,そこにはまず自然と人間性の真実についての価値評価があり,これが古代芸術にかつてあり,中世にはなかったものとする価値判断の上に立っている。したがって,造形芸術に関するかぎり,14世紀の論者は単なるリバイバル(復興)として〈再生〉なる用語を用いたのではなく,約束的形式から自由になり,自然らしさを復活したという意味において,これを用いたのであった。ペトラルカが,1347年の,政治家コラ・ディ・リエンツォのローマ共和政復興運動に共鳴したことが示すように,中世的社会の内部においてすでに12世紀から発達した都市構造の中で育成された市民的倫理とイデオロギー,ならびにイタリアの国民的伝統への自覚がローマ共和政に大いなる共感を寄せる理由があったこと,また,中世的・権威主義的教会内におけるアッシジのフランチェスコの刷新のごとき,キリスト教信仰の民衆化,世俗化もまた一方の大きな因子であった。ジョットは自治都市フィレンツェの市民であり,フランシスコ会の信徒であったゆえに,まさにフランチェスコの生涯伝を描いて新しい精神性をもつ人物像を創造しえたのであった。したがって,14~15世紀前半の〈再生〉とは,古代ローマに寄せる新しき市民の理念を象徴していたと考えられる。この点は15世紀半ば以降のルネサンス概念とは異なっている。

このように〈善き古代〉と〈悪しき中世〉,さらに〈善き現代〉という美術史観は15~16世紀の著作家にも受け継がれて定着し,ギベルティらを経てバザーリ(《芸術家列伝》初版1555,2版68)によって集大成された。バザーリは,この〈リナッシタ〉の語を初めて美術史上の概念として定着させた。しかし,バザーリは,ジョットによって初めて自然らしさを取り戻した芸術は,15世紀まで古代と自然の規範にしたがって発展し続けるが,それは最高の段階とはいえず,16世紀,すなわちバザーリ自身の時代に最高の完成に達したと考えた。この際彼にとって,最高の完成に芸術を導いた人物はミケランジェロであって,彼は〈古代をも自然をも凌駕(りようが)した〉とされた。すなわち,ここで16世紀の歴史観および美学は,自然主義と同様,古典古代の模倣からも自らを解放したと自覚しており,ここに新しい独自の理想美が掲げられたとみるべきである。バザーリによれば,自然と古代の規範にのっとって発展した15世紀美術のカノンは,アルベルティ=ウィトルウィウス流の比例と均衡とディセーニョ(素描。自然模倣の技術)などであり,人体解剖学,遠近法,幾何学的画面構成など15世紀の芸術家が関心を集中したもろもろの技術・手法(マニエラ)はみなこれに入る。しかし,バザーリによれば,16世紀はこれらの普遍的価値を追求するもろもろの規範に加えて,作家の独自の主観による判断力と,比例・尺度など,計測による均衡を踏みこえた,計測によらざる精神的な美(〈優美〉と呼ばれるもの)をもったとする。ここから,16世紀美術は,自然模倣と古典的調和を基本とする段階から,主観的・精神的表現力の深みへと飛躍したと考えられるが,通常この意識はレオナルド・ダ・ビンチの精神性とミケランジェロの主観主義によって与えられたものとされ,この時期を〈盛期ルネサンス〉と呼ぶ。ジョットを〈プロト・ルネサンス〉,マサッチョからレオナルドに至るまでの時期を〈初期ルネサンス〉と呼ぶのと同様である。

この間の美意識の変化について最も大きな影響力をもったのは,15世紀後半に盛んとなったM.フィチーノらの新プラトン主義である。この思想はプラトン哲学のキリスト教内における再生であって,この時代においては,復興されるべき古代はギリシアであり,追求された理念は神と人間との和解としての抽象的・哲学的世界像の確立であって,その典型的な表れが,フィチーノによるプラトン哲学の注解,キリスト教とプラトンとを調和させようとする意図のもとに書かれた《プラトン神学》などの著作である。フィチーノのパトロンが,僭主となったメディチ家であったこと,すでにフィレンツェが共和政を事実上捨て,芸術は貴族的上層階級と知識人によって保護されていたことがその背景であろう。またこの新しい段階への移行の原因として,1453年に滅びたビザンティン帝国から移住したギリシア系人文学者の影響と,同じく東方およびイスラム文化圏から将来されたヘルメス文書,カバラなど,またこれらの文書の中に示されている占星術,魔術,錬金術などの非キリスト教的・秘教的科学および世界観の影響とがあげられる。これら異文化の知識の流入または復興は,キリスト教による固定した世界観をゆるがせ,活性化されたアントロポモルフィクな世界像への契機となった。さらには現実の新大陸の発見やコペルニクスによる宇宙像の書換えなども作用し(ミシュレによる〈世界と人間の発見〉なる定義は,コペルニクスからガリレイの時代を念頭においたものである),15世紀と16世紀の様相を大きく変化させた。さらに15世紀末にフィレンツェをはじめとしてイタリア半島の経済は衰退し,領邦分裂によって国力は疲弊(ひへい)して,フランス,神聖ローマ帝国,スペインなど大国の侵入を受けることとなった(イタリア戦争)。これらに加えてルターによる宗教改革(1517)がローマ・カトリック教会とイタリアを痛撃し,ルネサンス文化の母体を破壊するが,これらの危機意識が芸術に現れたとき,それをマニエリスムと呼び,それを〈末期ルネサンス〉と呼ぶ者もいる。

 以上のようにエポックとしてのルネサンスにはいくつかの階梯がみられる。15世紀末に至るまでに実現された固有にルネサンス的な芸術は,つねに自然主義と古典的比例による理想美との両要素の総合の上に成立してきたものであり,これは,基本的には農業経済を主軸とした中世の封建的構造内に発達した,都市的市民もしくはその啓蒙的統治者の世界像から発生した芸術であった。またこれは,つねに現実を直視し,しかも個と集合体における市民共同体的調和を理想とする市民の理念を体現するものであったと考えられる。アルベルティのウィトルウィウス的調和論,フィラレーテの理想都市論などは,みなその代表的産物である。15世紀末,共和政もしくは人文主義的な統治の形態をもつ都市国家が衰弱するころから,都市的市民の理想を表現する自然主義,古典主義は衰え,抽象的・哲学的理念を象徴的に表現する貴族的・知識人的芸術へと転換した。この構造は16世紀末まで続く。すなわち,再び絶対主義の確立と反宗教改革および宗教改革の大衆的布教に伴う芸術の大衆化が起こるバロックまで,芸術は優美と技巧と主観的表現を重んずるマニエリスムへと傾いていった。

このようにルネサンスは,中世から近代へと移行する過渡的な文化としてさまざまな対立的要素を含む複雑な総合体であり,芸術作品の特徴も新旧両要素のきわめて多様な結合の中にこそ求められる。15世紀と16世紀の芸術は明白に異なった性格を帯びているにもかかわらず,後世,すなわち17世紀から19世紀に及ぶ美術批評史の中では,主としてその古典主義的局面のみが抽出され,しばしばルネサンス美術は古典主義と同一視されるにいたった。今や普遍的となっているこのようなルネサンス観を最初に明確に示したのは,17世紀の美術理論家ベローリであろう。彼はその《当代の画家・彫刻家・建築家の生涯》(1672)の中で,ラファエロの古典主義を芸術のカノン(規範)と考え,マニエリスム期にこれが〈死に絶え〉,アンニバレ・カラッチが〈再生〉させたと説いたが,これはベローリの友人N.プッサンの思想とも通じ,1648年に創立されたフランスの王立絵画・彫刻アカデミーの思想となって,近世の新古典主義の芸術と思想の源泉となった。18世紀のウィンケルマン(《ギリシア美術模倣論》1755)は,ギリシア彫刻に典型をみる理想美を美なるものの絶対のカノンと考え,古典主義的理想美を絶対化した。この見解はトレルチ(1925)のいうごとく,ルネサンスに始まるラテン文化とユマニスム(人文主義)の思想が,18世紀になってアルプス以北にまで普及した結果,それが最も観念化された理想主義の形態をとった例とみることができよう。

 一方,フランス革命以後のブルジョアジーの新しい史観に基づいて,前述のミシュレは,ルネサンスにおける近代化を全般的に評価し,アルプス以北における宗教改革をもユマニスムの表れとして位置づけた。ブルクハルトもルネサンスに表れた個人主義的な世界観,人間観を最も高く評価し,19世紀的ルネサンス観を代表している。この際,ミケランジェロ後半期の反古典主義や,その背景となった16世紀における反宗教改革運動とこれに伴う新封建化,新中世化の現象,もしくはつねに保守的伝統を保持した民衆文化,あるいは新プラトン主義の一部をなす神秘主義的傾向,サボナローラ,ルター,イグナティウス・デ・ロヨラに至る宗教的運動などは,非本質的なものとして歴史的裏面に取り残された。したがって,20世紀に入って,ゲルマン側からの歴史の見直し,および中世史家からのリアクションが起こり,これに応じたルネサンスの概念の変動がみられたのは当然といえよう。ホイジンガ,ワイゼG.Weise,フォション,パノフスキー,セズネックらは,それぞれの見地に立って,中世とゲルマン文化の独自の意義を復興させ,ルネサンスを古代から中世への歴史の連続の中で全ヨーロッパ文明的にとらえることを試みた。ラテン的・ルネサンス的古典主義をゲルマン的バロックと対立・並置させたウェルフリン(1899)は,17世紀以来の古典主義一辺倒の美学に終末をもたらしたが,彼もルネサンスを単純に古典主義と同一視したこと,また,16世紀におけるマニエリスムの存在と意味を度外視したことによって,その一面性を免れえない。しかし,19世紀より美術界に起こったアカデミズムの衰退と画期的な革新の数々が画一的なルネサンス観を揺るがせたと同時に,ワールブルク,パノフスキーらのイコノロジー(図像学)の出現によって,ルネサンスは美術の領域内のみでは把握されえぬものであり,人文諸科学の研究,すなわち文学,宗教,哲学,ヘルメス思想,神話学等々との学際的探究によって総合的,多角的に理解されるものであるとする動向が支配的となった。ワールブルク学派のF.A.イェーツ,ガレンE.Garin,ファーガソンW.K.Ferguson,クリステラーP.O.Kristellerらの思想史的アプローチがその暗部に光を当てることとなった。その点で現在は,ルネサンスの総合的な書直しの時期にあたっていると考えられる。

ルネサンス期を貫く共通の思想をあげるならば,それはユマニスム(人文主義)であろう。ユマニスムは,伝統的なアリストテレス的・スコラ哲学的世界像の体系の枠内にあるが,この神によって創造された世界の中で人間が神性と物質との中間的位置にあるものだとする。すなわち,人間は(キリスト教のドグマにしたがって)神によって創られ,霊魂を分けもつとされるが,一方において物質なる肉体をもち,物質の原理すなわち四大元素の支配を受け,滅びかつ変化する。この四大元素の支配を受ける,弱くまた物質的な性格と,神的にして不滅なる性格を具有しているという認識によって,ユマニスムは,世界内における人間の位置を中間的かつ流動的なものととらえる。つまり,新プラトン主義者であり,ヘルメス主義,カバラの深い影響下にあったピコ・デラ・ミランドラ(《人間の尊厳性について》1486)は,このような中間的存在としての人間が不滅性を得ることによって天の領域にまで高まることを得るとともに,その肉体性によって物質の段階に下降することもありうるとする。この可変性,可動性は,ヘルメス思想や錬金術の中に伝えられた被創造者としての受動性から,四大元素を用いての創造の可能性という思想によって,さらに能動性を帯びた。このようにして,人間は自ら望めば,世界と創造の中心になることが可能である。

 これらの思想のいっさいが,中世における,神のみを万物の中心とする思想と著しく異なっており,またガリレイ,ニュートン以降,支えなき無限の宇宙の中に人間は微小な存在として投げ出されたと考える人間観とも異なっている。このような神から物質に至る位階的体系と,その体系内での人間の能動性という中間的段階こそ,中世と近代の半ばにおけるルネサンスを典型的に示すものである。

このような,神と人間と世界との調和関係と人間の中心的位置についての観念が,ミクロコスモスとマクロコスモス間の調和という世界像を生み出した。アルベルティ=ウィトルウィウスに典型例をみる〈あらゆる要素の相互間の調和〉の理想はこのようなユマニスムの世界像に基づく。人間の肉体の正確なる把握と,これが宇宙,都市,空間と等しく正しい比例によって構築されているという観念が,ルネサンス美術の本質をなす古典主義的原理の根底にみられる。総じてこのルネサンス的形式原理が最も典型的にまた完ぺきに表現されたのは建築の分野であった。ブルネレスキ,アルベルティ,ブラマンテの造り出す調和と比例のある空間は最もみごとな古典主義の理念の実現であった。

 また,ブルネレスキの友人であったマサッチョは,絵画において最初にこのようなルネサンス的理想を実現した。さらに,ピエロ・デラ・フランチェスカ,マンテーニャ,ジョバンニ・ベリーニの作品中のあるもの,レオナルドの《最後の晩餐》,ラファエロの諸作,とくに《アテナイの学園》などの作品は,その代表例であった。しかし,ウェルフリンが指摘したように,このような理念が完全な実現をみた時期はごく短く,芸術がその点に到達するまでにさまざまの階梯があったごとく,これに達したのちには,すでにその解体と多様化があった。しかし,最も固有にルネサンス的と考えられる作品には,たとえばジョルジョーネの《眠れるビーナス》,ティツィアーノの《天上の愛と地上の愛》のごとく,さきにあげたレオナルドらトスカナの作例と等しいアントロポモルフィクな調和感がみなぎっているとみられる。しかし,レオナルドの手稿にみられる思想あるいはその後期の作品,とくに〈大洪水〉の素描シリーズなどにみられる,元素の運動に関する科学的省察を推し進めた結果の,無限に流動し自らの力で崩壊する物質界の描出には,このような〈ルネサンス的〉世界観を超えた近代性があり,その作品は絵画的という以上にロマン主義的な表現力を示している。ミケランジェロの人体造形には,すでに1510年代より不比例と歪形,遠近法的空間の無視がみられる。これは,20年代以後に明らかとなり,16世紀半ばに流行したマニエリスムの発端,あるいはのちのバロックの萌芽であるが,同時にまぎれもなくルネサンスのエポックに属するものであり,その一要素をなすものでもあった。

 同様に,シエナ派の画家やフラ・アンジェリコ,フィリッポ・リッピ,ゴッツォーリ,ボッティチェリ,トゥーラ,ペルジーノ,クリベリ,スクアルチオーネをはじめとする15世紀フェララ派,パドバ派の画家などの造形には,国際ゴシック様式の伝統である線描の優美で叙述的な雄弁さや色彩と量体表現における二次元性と装飾性あるいは象徴性,伝統的宗教図像,あるいはきわめて微細なミニアチュール的細部のリアリズムなどの〈中世的〉性格が伝承され,新様式と独自の混交を遂げている。このような特色は,古典期が過ぎると,ポントルモやロッソ・フィオレンティーノらの初期マニエリスムの中に新たな形で生き返った。一方,ウェルフリンによれば,世界を無限で広大なものと感じ,人間をその中に浸された被造物としてとらえるゴシック的伝統は,アルプス以北では決して死に絶えることはなく,イタリア・ルネサンスから古典様式を学んだデューラーの芸術にも,つねに本質的要素として活き続けた。デューラーの木版画は,イタリア美術に学んだ量塊と人体表現の雄弁さに加えて,〈ゴシック的〉ともいいうる強靱な線描と画面を満たす厳格な雰囲気とが強い精神性を表現している。マニエリストが逆にこのデューラーの影響を受けてその古典主義から脱皮し,新たな主観表現への契機の一つとしたことは,バザーリの指摘によっても明らかである。

また,このようなゴシック的特質とルネサンス的特質との結合は,15世紀最大の彫刻家であり,マサッチョ,ブルネレスキとともに古代芸術と遠近法の研究に先鞭(せんべん)をつけたドナテロの本質でもある。ドナテロの《ゲオルギウス》には,比例正しい人体と,ゴシック彫刻のもつ鋭い衣襞と深い精神性とが調和し,形式においては古代ローマの記念碑彫刻の復興である《ガッタメラータ騎馬像》は,その手法と人物表現においては理想美によらず酷薄なゴシック的リアリズムを示している。またドナテロの弟子ベルトルド・ディ・ジョバンニBertoldo di Giovanni(1420ころ-91)は,古代ローマ末期の石棺浮彫にみる激突する集団的人体のドラマを得意とし,アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョやデジデリオ・ダ・セッティニャーノも,ボッティチェリやフィリッポ・リッピと同様の〈中間的様式〉に独自の優美さを示している。彫刻家の中では,陶彫刻のL.デラ・ロッビアが,ラファエロに似た調和的形式感覚を最もよく備えていたといえよう。ポライウオロとベロッキオはリアルな人体表現とその動勢の表出に熟達したビルトゥオーソであったが,深い内面性と理想的な形式美を当初から明示した若きミケランジェロの古典主義的完成には遠く及ばなかった。16世紀初頭,《ダビデ》に至るまでのミケランジェロの作品は,古代(とくにヘレニズム期)彫刻に範をとり,人体解剖学に精通し,フィチーノらの新プラトン主義的コンセプトによって内的に豊かにされた古典的傑作であった。そののち彼は人物の姿態の表現力を追求してしだいに複雑でねじれた蛇状人体(フィグーラ・セルペンティナータ)を創造し,比例と調和とを捨て,強い表現力と精神性を重視するようになった。これは明らかな反古典主義的展開であり,《最後の審判》《勝利の群像》はそれぞれ絵画と彫刻におけるマニエリスムの範となったものである。同様にラファエロも,晩年の《ボルゴの火災》《キリストの変容》の絵画作品において,反古典主義的特色をあらわに示した。とくに後者はバロック祭壇画の先駆をなすものといわれる。

一方,アルプス以北においては,中世社会の成熟に伴う生の近代化,人間精神の世俗化は,速度のちがいこそあれ,イタリアと同様に行われたが,古典古代の伝統をもたず,イタリアのごとく人文主義思想が早期に発達しなかった諸国においては,生の近代化は,まだ強力なキリスト教の倫理との間に鋭い矛盾を生み出した。フランドルのH.ボスの怪奇な寓意画は,キリスト教の厳しい倫理の光によって逆照射された近代的生の陰画ともいうべきものであり,このような相克は,P.ブリューゲルにも見いだされるものである。これは,イタリアとは表れ方が異なっているとはいえ,同じくルネサンス・ユマニスムの表れの一つにほかならない。

 アルプス以北においては,ユマニスムはエラスムスにおけるごとく人間精神の省察とその倫理性の高揚とに向けられ,ルターの宗教改革を呼び起こし,モンテーニュ,パスカルのごときモラリストを生んだ。デューラーとブリューゲルとはともに,このようなアルプス以北の倫理的・宗教的・人間的革新運動としての北方的ルネサンスの代表者である。しかし,フランドルの15世紀絵画の主流は,市民階級の現実主義的精神とキリスト教的敬虔さとを併せもつJ.ファン・アイクの油彩画およびその後継者の作品によって占められている。油彩技法は細密・正確な描写に加えて,光の照射とその効果の表現に優れ,イタリアのごとく理念的な比例的空間を線描によって表現するのとはちがい,巧みなイリュージョニズムによって,あるがままの現実を模倣した。この視覚的現実性の迫力はH.ファン・デル・フースの《ポルティナーリの祭壇画》がフィレンツェに運ばれたとき,イタリアの画家に大きな衝撃を与えたとされ,レオナルドの手法にも多大の影響を与え,16世紀における絵画的表現への糸口をつくった。またアントネロ・ダ・メッシナが直接に油彩を伝えたベネチアでは,ティツィアーノを主とするベネチアにおける油彩画の輝かしい伝統を打ち立てることとなった。風土的に北方に近いロンバルディア,エミリアにおいても,ロット,サボルド,カンピCampi,フォッパV.Foppa,コレッジョら,明暗表現と色彩のバルール(色価)に優れた油彩画家が輩出し,のちのバロック美術の下地をつくった。抽象的に分節化された有限の空間における理想的形体の配置を特色とするイタリアに反し,闇の中に光によって浮かび上がるビジョン,あるいは無限のスペースの中に人間を配する風景の表現は,北方の生み出したものであるが,これは16~17世紀の世界像と合致し,やがて古典主義を抑えて全ヨーロッパに普及することとなった。

 一方,ゴシックの伝統が永く続きフランソア1世時代に初めてイタリア美術の本格的な導入を行ったフランスでは,フランソア1世とイタリアとの緊密な関係とフォンテンブロー宮殿に招かれたロッソ・フィオレンティーノ,プリマティッチョ,チェリーニらイタリアの優美な技巧家たちの影響によって特色ある宮廷的・耽美(たんび)的な芸術様式を生み出した。〈フランソア1世のギャラリー〉によって代表されるフォンテンブロー派と呼ばれる一群の優美で様式化され,かつ官能的な流派がフランス近世の国民的様式の土台をつくることとなる。優雅なエロティシズムをもつフランスの宮廷的流派は,フランスがルネサンスに接して生み出した芸術であるが,その生成からもスタイルからも,むしろマニエリスムと呼ぶにふさわしい。フランスにおけるよりルネサンス的芸術は,チェリーニの優美さとともに古典彫刻の調和をもつグージョンとピロンによって代表されるであろう。フォンテンブロー派の系譜は16世紀末に生まれたN.プッサンに吸収され,プッサンはベネチアを経てローマに赴き,同地で生涯を送って,ルネサンス美術の集大成とその理論的摂取を試み,一世紀おくれてルネサンス様式をフランスに移植し,近世における古典主義の伝統の創始者となったのである。
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ルネサンス人文主義の世界観を初めて具体的空間として提示したのは,フィレンツェのブルネレスキである。彼はそれまで不可能とされていたフィレンツェのドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)のクーポラ(円蓋)建設を,近代的な科学的精神により成し遂げ世に知られたが,その作品はいずれも,その後2世紀間にわたり展開されるルネサンス・イタリア建築のほとんどの課題を先取りしていたといってよい。明快な幾何学的空間比例,古典建築手法の採用,幾何学的量塊表現,それらの透視図法的特質を軸とした都市的秩序の象徴的表現,教会堂建築への古典建築手法の応用,古典手法の表象性の追求など,彼の提起した課題は,建築だけでなく絵画や彫刻にも決定的な影響を与えた。とくに透視図法的空間認識は,15世紀を通じてあらゆる空間把握のための最重要な手がかりとなった。彼の建築手法はミケロッツォをはじめとする多くの追随者を生み出したが,それら追随者たちは概して,ブルネレスキの空間理念をさらに発展させることは少なく,形態的な新味を追いかける彫刻的あるいは絵画的な作風に傾きがちであった。しかし,そうした通俗化された手法が,かえって新様式の浸透を助けたともいえる。15世紀中ごろまでには,新様式はほぼイタリア全土に広まり,それぞれの地方的伝統と遭遇して独特の様式をつくり出した。たとえば,ロンバルディアでは,ミラノのドゥオモ(ミラノ大聖堂)やパビアのチェルトーザ修道院のように,主体はゴシックであるが,空間比例には紛れもないルネサンス的な特徴が表れているものや,後期ゴシックの色彩豊かな装飾を古典風のシルエットに収めたベルガモのコレオーニ礼拝堂(G.A. アマデオ作)などの例がみられ,またベネチアでは,伝統的なビザンティン式のロッジアに開放的な螺旋(らせん)階段を取り付けたパラッツォ・コンタリーニ(15世紀末),華麗な色大理石の幾何学的パターンを装飾とし,建物全体の量塊もそれにあわせて幾何学的にまとめたサンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会(P. ロンバルド作)などがある。ナポリやシチリアでは,ノルマンやイスラムの様式と結びつき,ふしぎなおとぎ話風の建築ができ上がった。しかし,これらの後進地域も,16世紀初めまでには,より本格的なフィレンツェの様式を受け入れるようになる。

ルネサンス第一の古典学者アルベルティは,ブルネレスキから強い刺激を受け,ウィトルウィウスなどの古代文献研究を通じ,建築の比例理論を〈オーダー〉の体系にまとめ上げ,また透視図法の数学的裏づけを試みるなど,ルネサンス建築理論の基礎を築き上げた。その一方で,みずからも建築の設計を試み,フィレンツェ,リミニ,マントバなどに重要な作品を残している。彼はブルネレスキとはやや異なり,〈オーダー〉の体系による古典建築の構造秩序を都市空間の理念的表象として用いる手法をとり,コロセウムや凱旋門などの形式を基にした知的な表象的様式を創り上げた。彼の手法は通俗化された形でロッセリーノB.Rossellinoらに受け継がれたが,真にその意義を理解し壮大な古典主義にまで発展させたのは,16世紀以降のブラマンテとその一門の人びとであった。一方,〈宇宙的調和harmonia mundi〉を説くきわめて高度なその理論は,当時の支配層,知識階級から新たな都市論として迎えられ,〈理想都市〉建設の機運に大きな刺激を与える。ロッセリーノによるピエンツァの中心広場計画,ファンチェリL.Fancelliらによるマントバの王宮〈パラッツォ・ドゥカーレ〉,ラウラーナらによるウルビノの王宮〈パラッツォ・ドゥカーレ〉など,この当時の大規模な建設計画には,ほとんどといってよいほどアルベルティの助言があずかっていた。しかし当時の中・小イタリア自治都市にとっては,政治的・軍事的自立が何よりも緊急の課題であり,建築家たちはそれに応えるべく,都市形態を防御に有利と考えられた五角形や星形などの完結した幾何学的形態にまとめ上げる,半ば空想的な提案を行っていた。ミラノのスフォルツァ家に雇われたフィレンツェのフィラレーテの理想都市案〈スフォルツィンダSforzinda〉や,ラウラーナの後を継いでウルビノ公の建築家となったフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの理想都市案などは,その代表的なものである。これらは,合理的な都市計画というよりは,むしろ誇張された軍事的形態を通じて,半ば戯画的に都市を表象する傾向があり,チェーザレ・ボルジアのもとでレオナルド・ダ・ビンチが作成していた軍事要塞の計画案などにも,そのようすがみてとられる。この背後には,閉鎖的な自己完結的都市という観念が,当時の政治状況の中ですでに時代錯誤となりかけていたという事情があり,かえってこうした時代錯誤的表象が,やがて貴族たちが過密な都市を逃れて近郊に別荘(ビラ)を構える風潮などとともに,旧来の都市の閉鎖性を打破していく手がかりとなった。

ルネサンス都市は絶えざる祝祭の場でもあった。都市広場や貴族の邸宅,教会堂などは,しばしば儀式や演劇上演の場所となり,それらを構成するさまざまの建築的形態,外部階段やロッジア,柱廊,アーケード,円形に囲われた空間などが,そうした祝祭の記憶と結びつき,劇場的なるものを暗示する形態とみなされるようになる。やがて建築家たちは,これらのモティーフを駆使して意図的に都市空間を劇場に仕立て上げ始める。そこでは初期ルネサンス以来の透視図法は,舞台を構成する重要な空間装置として,建築的要素と同等に扱われ,いわゆる〈書割的scenografica〉な手法ができ上がる。絵画的空間と建築空間の間の区別は消滅し,自由に両者が交錯しはじめる。マンテーニャによるマントバの王宮内の壁画,レオナルドによるサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ(ミラノ)の《最後の晩餐》,ブラマンテによるサン・サチーロ修道院(ミラノ)内のサンタ・マリア小聖堂などは,そうした書割的・劇場的空間の代表的なものである。ミラノ時代のブラマンテは,レオナルドの強い影響下に,こうした〈絵画的pittorica〉な実験と,建築空間を幾何学的量塊の自律的な秩序として表現する試みに専心していたが,世紀の変り目にローマへ移って以後は,サン・ピエトロ大聖堂やバチカンのベルベデーレの中庭などの大計画を手がける中で,アルベルティの表象的古典主義の手法をも組み込み,壮大な劇場的空間様式を確立していく。これがいわゆる〈盛期ルネサンス〉と呼ばれる様式であるが,ここでは建築や絵画,彫刻などの各分野を個別に取り上げるのが無意味となるほどの,渾然たる総合がなされている。こうした中で古代建築に対する関心はいっそう高められ,ウィトルウィウス研究にとどまらず,古代遺跡の考古学的調査も盛んとなり,そうした知識の拡大が,また建築の新たな知的表現手法の拡大と結びついた。盛期ルネサンスの頂点に立つラファエロは,バチカンの〈スタンツェ〉の壁画において,現実の空間が絵画的空間の中に吸い上げられていくような手法を展開し,また未完に終わったローマ近郊のビラ・マダマでは,広大な敷地の自然環境までをも,その表象的秩序の中に組み入れる壮大な劇場的構成を試みている。ラファエロの後を受けたペルッツィは,より繊細な諧謔(かいぎやく)味をこめた手法を展開し,ジェンガG.Gengaはペーザロのウルビノ公離宮で,謎めいた迷宮的構成を創り出す。ラファエロの右腕であったジュリオ・ロマーノは,豪放な神話劇の空間を思わせるマントバのパラッツォ・デル・テを造った。ペルッツィの弟子セルリオは,こうしたブラマンテ一門の人びとの作風をその建築書に紹介し,ヨーロッパ全土に影響を及ぼしたが,しかし彼を介して伝えられた盛期ルネサンスの様式は,その基礎となる都市文化への省察を欠き,やや浅薄なものとならざるをえなかった。一方,ラファエロの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂の造営に当たったA.daサンガロは,様式的には冷厳な古典風を守りながらも,それらの表象性よりは構造的量塊の威圧的な迫力追求に傾き,やがてブラマンテ的伝統から外れていくこととなる。

みずからは彫刻家であると主張しながら,しばしば他分野の仕事を強要され,しかもそれぞれの分野に巨大な足跡を印したミケランジェロは,建築においてもその流れを大きく変える原動力となった。その建築の特色は,まさに彼自身が宣言していたように,彫刻家としての特権を利し,ウィトルウィウス的規範から自由に離れ,建築的形態をより即物的な彫刻的対象としてとらえることにより,独自の作家的個性(バザーリのいう〈マニエラ〉)を発揮した点に求められる。ここから浮かび上がってくるのが,サン・ピエトロ大聖堂の大ドームのような巨大な量塊感,カンピドリオの広場にみる動的な緊張感,ラウレンツィアーナ図書館の激しい空間の上昇感といった,人文主義的調和とは異質の表現性である。その意味でミケランジェロの建築は,反人文主義的な,いわゆる〈マニエリスム〉の作風を代表するものということができる。建築におけるマニエリスムをどのように位置づけるかは,いまだに研究者の間でも大きく意見が分かれ,この用語に頼って歴史的輪郭を描くのは危険であるが,ミケランジェロがその動きの中心にあり,ほとんどすべての建築家がそこを避けて通ることのできないほどの影響を与えたことは確かである。そして彼の建築がもつ激しい英雄的な身ぶりは,人文主義的理想を見失いかけた当時の支配層の権威主義的志向から喜んで迎えられることとなった。とくにメディチ家統治下のフィレンツェでは,バザーリやアンマナーティB.Ammanati,ブオンタレンティB.Buontalentiらの手によって,そうした不条理な表現主義的傾向がいっそう強められる。その後のローマ建築界の中心となっていたビニョーラは,彼の著した古典建築技法書がのちに全ヨーロッパで権威ある教科書として用いられたほどの,学殖豊かな建築家であったが,その精緻な古典主義技法がつくり出す緊張感は,盛期ルネサンスの壮大な表象性とはまったく異質のものであった。ビニョーラはこうした作風のゆえに,反宗教改革運動の最も推奨する建築家となったといえよう。これに劣らぬ古典の知識を備えたリゴリオは,ぎっしりと細密な浮彫で表面を覆いつくしたピウス4世のカジノ(バチカン)や,〈水オルガン〉で有名なティボリのエステ荘庭園などを造ったが,これらには建築が都市とのかかわりを失ってしまったあとの,孤立的な表情が表れている。ジェノバやミラノで活躍したアレッシG.Alessiの場合,厳正な古典的基本構成が北イタリアの装飾的伝統と結びつき,激しい表現的性格を帯びている。反宗教改革運動の推進者ボロメオに仕えた建築家ティバルディの建築では,主たる構造体の空間構成を否定するような別の要素がつねに介在することで,息苦しい緊張感が生み出される。そしてこうした表現性や緊張感が,やがてビトッツィA.Vitozziのバロック的空間へとつながっていく。
マニエリスム

ベネチアの保守的風土は,新様式の導入を他の地より半世紀近く遅らせたが,しかしその開放的な都市構造のおかげで,16世紀初めにはパラッツォ・ベンドラミニ(M. コドゥッチ?)やサン・マルコ広場の整備など先取的な試みが開始されており,他の内陸都市に比べ,はるかに盛期ルネサンスの方法を受け入れやすい状況にあった。1530年前後からは,ローマですでに名声を確立していたJ.サンソビーノ,ベローナ生れでサンガロの助手として軍事建築を数多く手がけていたサンミケーリの2人が活躍を始める。サンソビーノはパラッツォ・コルネルやサン・マルコ図書館などに,豊かな装飾を駆使したモニュメンタルな古典様式を展開し,サンミケーリは対照的に厳しく男性的な,しかもきわめて知的な〈絵画的〉手法をベローナ,ベネチアの軍事建築や邸宅に繰り広げた。これら2人の後を追いジュリオ・ロマーノの影響をも取り込みながら,独学でウィトルウィウスを修得し,小都市ビチェンツァで活躍を始めたのがパラディオである。彼が手がけた課題はすべて,後進的なベネト固有のつつましいものであり,決してローマのそれのような華々しくはなかったが,彼の提起した方法は,後世の人びとからは,最も明快で利用範囲の広い一般解として受け取られた。彼はしばしば古典学者のバルバロD.Barbaroや画家ベロネーゼ,彫刻家ビットリアA.Vittoriaらと共同し,ビチェンツァやベネチアの貴族たちのために,ベネトの平原の中に数多くの〈ビラ〉を造ったが,これは都市に縛りつけられていた在来の空間認識を,広い自然環境に向けて開かせることとなり,人文主義の最終目的としていた普遍的な空間の実現に近づいたものということができる。その反面,彼にあっては,都市はもはや権力の中枢や経済活動の場ではなく,過去の輝かしい文化を保存する象徴的場所,つまり字義通りの〈劇場都市〉となりつつあった。こうしたベネトの農本主義的イデオロギーに根ざした彼の建築手法は,後世のユートピア主義者のコロニーなどで好んで用いられたが,しかし当時の西欧はこうした牧歌的農本主義とは逆の,中央集権的近代国家を目ざしており,バロック的な秩序へ移行し始めていた。パラディオの後継者を自任するスカモッツィの建築は,パラディオ的古典主義を装いながら,バロック的都市秩序に身を任せるものとなっていた。

人文主義自体は比較的速やかに全ヨーロッパに広まっていたし,また人文主義美術の基礎となる幾何学や透視図法に対する関心も,必ずしもイタリアに劣るものではなかった。しかし,新しい建築運動がヨーロッパ諸国で本格的な理解を得られるようになるのはかなり遅れ,16世紀後半,所によっては17世紀に入ってからのことである。それも多くの場合,部分的な古典風装飾の導入や左右対称の構成程度にとどまっていた。

 地理的な関係もあって,フランスとスペインが最も早く,15世紀半ばには新様式が入りこんだが,フランスの場合は,散発的に王族の墓廟を飾るとか,半ば遊戯的に貴族たちのシャトー(城館)に取り入れられる程度であった。フランソア1世のシャンボールのシャトーでは,レオナルド・ダ・ビンチの着想になる二重螺旋の階段も,戯画化された中世風の城郭建築をさらに非現実化するための手段として用いられているにすぎず,独自の形態発展の手がかりとはなっていないし,フォンテンブロー宮殿も北イタリア風の混合様式にとどまっていた。またスペインでは,北イタリア経由の混合様式がさらにイスラム風の装飾や後期ゴシックの過剰な装飾と結びつき,独特の〈プラテレスコ様式〉が生まれている。一見,本格的なイタリア風にみえるマチュカP.Machucaのアルハンブラ内カルロス5世の宮殿も,セルリオの著書を粗雑に模倣したにすぎず,比例はまったく不安定であった。

 その他の国々では,直接イタリアからではなく,フランスやスペインを介して新様式を移入したために,初期ルネサンス建築はさらに奇妙な遊戯的・装飾的性格を帯びる。フランドルのフレーデマン・デ・フリースやアルザスのディッターリンW.Dietterlinなどはその典型的な例である。より本格的なイタリア風が現れるのは,スペインでは,哲学者で数学者のフアン・バウティスタ・デ・トレドと建築家フアン・デ・エレラの共同によるエル・エスコリアルの造営からであり,フランスの場合は,ドロルム,レスコー,ビュランJ.Bullantといった建築家たちの出現以後のことであった。しかしこれらの人びとも,初期ルネサンスの段階をとばしていきなりセルリオやビニョーラ,あるいはティバルディといった例に出会うこととなったため,イタリア・ルネサンス建築を生み出した高度な都市理念にはほとんど触れずじまいであり,ひたすらアカデミックな態度でそれら後期ルネサンスの形態を学ぶに終始していた。したがって,これらは依然として孤立した現象にとどまり,安定した様式を築くには至らず,他の国々と同様,次のバロックの時代を迎えて初めて,国民的な独自の古典様式の確立をみるのである。

 イギリスの場合も,16世紀までは他の諸国とまったく同様な状況にあり,フランスないしフランドル経由の装飾を用いた,遊戯的な〈カントリー・ハウス〉が造られていたにすぎなかったが,17世紀のイニゴ・ジョーンズの出現によって,初めて本格的なイタリア風の導入をみる。しかし,ジョーンズの採用したのがパラディオの建築手法(パラディオ主義)であったことにより,他の西欧諸国とはやや異なる経過をたどることとなった。すなわち,中央集権的なバロック的空間秩序ではなしに,都市建築とカントリー・ハウスとがほどよい均衡を保ちつつ進んでいくことによって独特のイギリス的環境が形成され,19世紀までその均衡は崩されることがなかったのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルネサンス美術」の意味・わかりやすい解説

ルネサンス美術
るねさんすびじゅつ

美術史におけるルネサンスは、15、16世紀のヨーロッパ美術、ことにイタリアで発展した美術の様式および時代区分の概念である。

美術史におけるルネサンス

19世紀以降、ルネサンスRenaissanceは一般に文芸復興と訳され、広くヨーロッパの文化現象を把握する概念として登場した。そして古代のギリシア・ローマの芸術・文化を理想として、文学、美術、思想など、あらゆる領域で新しい文化を創造しようとした14世紀から16世紀に至る全ヨーロッパ的な運動をさした。しかし、美術史の通説では、1420年、建築家ブルネレスキが古代研究の成果を最初に実現したフィレンツェ大聖堂円蓋(えんがい)の工事が起工されたころから、1520~1530年ごろに古典的美術がマニエリスムに移行した年代までのイタリア美術に限定して狭く用いる。その場合とくに、1500年を境に1400年代を前期ルネサンス、1500年代を盛期ルネサンスと称する。

 ルネサンスというフランス語は、「再生、復活」を意味するイタリア語のリナシタrinàscitaに由来する。古く14世紀の詩人ペトラルカやボッカチオらが、失われていた古代の芸術を彼らの新時代によみがえらせる意味にこのことばを用いて以来、イタリアの人文主義的史観として受け継がれていった。15世紀の美術家ギベルティやアルベルティ、フィラレーテらの著作にそれがみられる。とくに16世紀の美術家ジョルジョ・バザーリは、その『美術家列伝』(初版1550)で数回リナシタの語を使って、古代美術のよい様式がいったん野蛮な民族の侵入や中世キリスト教による偶像破壊運動のために衰退し、さらに粗野なマニエラ・テデスカmaniera tedesca(ドイツ風様式)や生硬なマニエラ・グレカm. greca(ビザンティン風様式)が支配していたが、13世紀後半からイタリアのトスカナ地方で画家のチマブーエやジョット、彫刻家のニコラ・ピサーノやアルノルフォ・ディ・カンビオらが出現して、ようやく古代の優れた芸術精神が復活されたと述べた。しかも、この古代の再生が古典の研究と自然の模倣に立脚した自然主義の推進によることも明確に指摘していた。

 かつて19世紀のミシュレやブルクハルトがルネサンスを「人間と世界の発見」の時代と説いて以来、ルネサンスは単なる古代の再生というだけでなく、中世と決別したむしろ新しい人間像や世界観の到来を告げる輝かしい文化史上の概念として拡大された。しかし、今日ではかえって、ルネサンスは中世との関係をめぐってヨーロッパ文化全体を巻き込んだ活発な論議の対象となり、またカロリング朝や12世紀の文化にもルネサンスがとなえられ、複雑かつ多義的な概念となっている。しかし、バザーリにみたように、ルネサンスは本来イタリアの美術風土に成立し、しかもこの時期のイタリアの美術家たちの史的認識と芸術意志が生み出した、美術現象を契機として形成された概念といわねばならない。

[上平 貢]

ルネサンス美術の曙

もともと古典古代の文化的基盤にたつイタリアでは、古代の再生は15世紀に突然に自覚されたわけではない。すでに新しい美術の萌芽(ほうが)は、当時の人々が対立的にとらえていた中世のゴシック美術のなかに早くから現れた。北方の中世美術の影響はイタリア中部のトスカナにも及んだが、この地方の美術は13世紀ごろからしだいに独自な様相を示し始めた。ドミニコ会やフランチェスコ会の新しい宗教観の興隆に促されて、教会建築の造営をはじめ、各地で説教壇、板絵祭壇画、壁画の制作などが活況を呈した。

 彫刻のニコラ・ピサーノは、古代作品の研究から、明晰(めいせき)な構図や人体の量塊的把握を通じて古典的な壮大さや調和を回復した。ジョバンニ・ピサーノは、父ニコラの作風に写実的な人物描写や動的な空間表現を加えて、自然主義への道を一歩進めた。アルノルフォ・ディ・カンビオは建築にも活躍したが、簡明な形態と温雅な心情を宿す赤裸々な造形性を主張した。絵画では、チマブーエが当時のビザンティン風の宗教画に現実的イメージを注入し、人間像にほとばしる生命感情を充実させた。ローマの画家ピエトロ・カバリーニはフレスコ画法を再興し、古代の伝統をよみがえらせた。14世紀にフィレンツェ画派の基礎を確立したジョットは、豊かな自然感情によって、人物の表情や姿態にリアルな存在感を与え、背後の空間に奥行と明暗を描出するとともに、画面に合理的な均衡と秩序を構成し、知性と感情の融和を達成した。彼によって、古典的な造形原理と、人間および自然の真実に迫る新時代の芸術精神との統一が予言されたといえる。シエナにも美術の新しい胎動がおこった。多くの聖母子像を描いたドゥッチョは、優雅な感受性と甘美な色彩を特色とし、物語的図解力を発揮した。それを受けたシモーネ・マルティーニは、線のリズムに人間感情の起伏と異国的な情趣を漂わせた壮麗な世俗的画風を樹立した。またピエトロとアンブロジオのロレンツェッティ兄弟は、宗教画のみならず愛郷的な市民意識に根ざした寓意(ぐうい)的主題にも、人間のなまな熱情や視線を注ぎ、日常の生活や情景への関心を高める一方、空間描写を三次元的に進展させた。

 14世紀前半期までのこうしたトスカナ諸都市の美術動向は、15世紀の前期ルネサンスに先行する美術活動として、とくにプロト・ルネサンスとよばれる。しかし、黒死病(ペスト)の来襲を転機として14世紀後半のヨーロッパ社会は極端な厭世(えんせい)と救済の思想に覆われ、イタリア美術もそのころの世俗的な写実主義と禁欲的な超越主義の対立と相克を反映した。一見ルネサンスの方向は停滞あるいは逆行したように思われるが、かえって身近な現実に対する入念な写実的態度や装飾的傾向を強め、やがて1400年前後に約70年にわたってヨーロッパ各都市の宮廷を中心に展開した、夢幻的かつ繊細甘美な後期ゴシック国際様式の風潮に合流していった。

[上平 貢]

前期ルネサンスの美術

ジョットが再生を予告した新時代の芸術が明確にその骨格をみせ始めたのは、まず15世紀のフィレンツェであった。この都市は、政治的・経済的な繁栄を背景に人文主義の思潮をはぐくみ、人間の人格と個性を尊重した。美術家たちは組合をつくり工房を拠点にして、こぞって古代作品の研究や写実的な自然の探究を進めていく。市民たちの美術に対する高い関心と公私にわたる旺盛(おうせい)な注文に応じて、建築、彫刻、絵画などあらゆる造形分野が互いに呼応しながら活性化していった。

 ブルネレスキは、ローマで古代建築を調査して各種の架構技術を解明するとともに、古典的構成美の本質を体得した。その成果をフィレンツェの教会建築群に適用して、現実的な有限の都市空間に均斉のとれた明晰な各部分の比例や統一を達成し、ルネサンス建築の調和的理想像を提起した。彼に続いたミケロッツォ・ディ・バルトロメオやアルベルティらは、宮殿や教会の建築設計に古代様式に基づく構想を熱心に追求した。15世紀後半には、フィレンツェで成立した新様式はイタリア各地に波及し大きな反響をよんだ。さらにブラマンテやピエトロ・ダ・ロンバルドらを通して、15世紀末から16世紀にかけてミラノ、ベネチア、ローマへと輪を広げ、それぞれの環境と趣味に応じて独自の展開をみせた。

 彫刻は建築とともに古代の作例との関連が深く、作風と技法の両面から当代の彫刻家は多大の示唆を受けた。15世紀初頭のナンニ・ディ・バンコ、ギベルティ、ブルネレスキ、シエナのヤコポ・デッラ・クエルチアらが早くも研究に着手し、競って人物の彫塑的表現の諸問題に取り組んだ。とくにドナテッロは、古代研究と並んで人体の写実的追求を重ねて、古典精神と自然主義との融合を図り、ゴシックの名残(なごり)を脱却して彫刻に新しい変革をもたらした。このころ、彫刻はしだいに建築に対する従属的地位を解かれ、彫塑芸術本来の量塊的な立体性と自由な空間性、そして独立した記念碑性を確立しつつあった。宗教的主題のほかに肖像や騎馬像、異教的主題も数多く登場し、木、大理石、ブロンズ、テラコッタなど多様な素材を駆使して、多彩な造形表現が繰り広げられた。ドナテッロに続いてロッビアとその一門、ミーノ・ダ・フィエーゾレ、セッティニャノ、ロッセリーノなどが活躍した。15世紀後半には進歩的なポライウオーロ兄弟、ベロッキオ、ベルトルドらが解剖学的探究や運動表現、心理描写によって写実主義をいっそう促進させた。

 絵画におけるルネサンスの開花は、国際ゴシック様式の克服とジョットの芸術精神の再興を意味した。その画期的な革新者は1420年代のマサッチョであった。ブルネレスキから透視図法を、ドナテッロから厳格な写実主義を学んだ彼は、光と空気の充満した造形空間に量感豊かな実在的な人物や風景を描出した。現実の生命感にあふれた可触的な人体、合理的な明暗法と遠近法による広壮な統一的構図は、新時代の人間の尊厳と自然空間の芸術性を実証した。その後、15世紀の前半から中葉にかけてマサッチョの偉大な足跡を追う多くの画家が輩出した。それは、宗教画に自然主義を導入して清純な至福の世界を描いたフラ・アンジェリコ、透視図法の幾何学的研究に熱中して夢幻的な画境を築いたウッチェロ、聖母にも世俗的な人間感情を移入したフラ・フィリッポ・リッピ、光と色彩の合理的な関係に着目したベネチアーノ、徹底した写実に鋭敏な情感を注いだカスターニョ、壮麗な風俗絵巻を描いたゴッツォリ、精妙な人体と風景を描いたバルドビネッティらがそれである。この世紀後半には、自然観察を人体解剖などの科学研究にまで進めていったポライウオーロ兄弟やベロッキオ、肖像と風俗の描写に客観的な写実主義を貫いたギルランダイヨがいる。そして激しい情念の画家ボッティチェッリは、ルネサンス芸術の形式と理念を掲げながら画風に後期ゴシックの神秘な詩的情趣を宿し、古代と中世の不思議な和解を試みた。

 フィレンツェ以外の地域の絵画では、中部イタリアにペルジーノ、ピントリッキョ、とくに遠近法と人体比例を研究し洗練された色彩を用いて格調の高い画風を形成したピエロ・デッラ・フランチェスカがいる。北イタリアでは、遠近法を駆使した堅牢(けんろう)な人物描写によって独自の芸術的個性を主張するマンテーニャをはじめ、コスメ・トゥーラ、コッサが注目される。このほかベッリーニ一門、アントネッロ・ダ・メッシーナ、クリベッリらもユニークな活動をした。

[上平 貢]

盛期ルネサンスの美術

前期ルネサンスの美術家たちは、熱心な古代作品の研究、緻密(ちみつ)な描写対象の観察、人体の解剖学的探究、光と明暗の光学的追求、さらに空間に対する幾何学的法則性の解明、つまり遠近法の課題など、これらに合理的かつ科学的な態度で臨んだ。こうした自然の模倣、すなわち人間と自然に関する客観的な写実主義の増大は、同時に古代芸術の再生を意味し、さらに古典的な理想主義への到達を目標としていた。しかし、高次な古典的芸術への道はレオナルド・ダ・ビンチによってようやく開かれた。彼は絵画、彫刻、建築の造形芸術はもとより、多方面にわたる科学的研究にも秀で、ルネサンス美術家のもっとも典型的な「万能の天才」であった。そして、芸術創造の内奥はつねに科学的思考と分かちがたく結ばれていた。レオナルドは、偶然的なものを排除して普遍的なものを目ざし、客観的な描写対象に主観的な深い精神内容を統一させて理想的な古典様式を完成した。彼の芸術は16世紀初頭のイタリアで人々の注目を集め、後進の共鳴者を出すようになった。また、当時ローマで盛んに発掘された古代彫刻にも鼓吹されて、古典様式は広まっていく。ミケランジェロもこのころ、ほとばしる熱情とたくましい造形力を駆使して、力感あふれる永遠的な人間像を絵画や彫刻に表現した。彼はむしろ写実を抑えた主観的な理想形式に傾いた。若いラファエッロは全生涯を盛期ルネサンスに没入させたといってもよく、前二者の芸術から多大の成果を吸収して自らの画風に同化させる一方、進んで古代研究に従事して得た知見も総合して、理想的な人間美の形式を樹立した。ほかに画家ではフィレンツェのフラ・バルトロメオやサルト、シエナのソドマ、エミリアのコレッジョとドッソ・ドッシ、そしてとくにベネチアのジョルジョーネと初期のティツィアーノやピオンボの出現が注目される。

[上平 貢]

ルネサンス美術の余映

盛期ルネサンスは意外に短期間である。すでにルネサンス美術の中心地は、フィレンツェからローマへ、あるいはベネチアへ移りつつあった。1520年代に成立したマニエリスム、さらにバロック様式へと時代が下るにつれこの傾向はいっそう強まっていく。それとともに、盛期ルネサンスの古典様式の調和・均衡・安定を旨とする規範的な理想美は、かえって反発の対象となった。しかし、近世以後のヨーロッパ美術の発展には、古典主義への回帰が幾度かみられ、その輝きが消え去ることはない。

 イタリアのルネサンス美術と同時代に並行して展開したフランドル、ドイツ、フランスなど他のヨーロッパ地域の美術について、この両者を中世後期ないし近世初期の分極現象とする見方もあるが、後者に本来の「古代の再生」としてのルネサンス概念を適用することは困難である。

[上平 貢]

『摩寿意善郎編『大系世界の美術13~15 ルネサンス美術I~Ⅲ』(1976・学習研究社)』『M・ドヴォルシャック著、中村茂夫訳『イタリア・ルネサンス美術史』上下(1966・岩崎美術社)』『L・H・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳『人類の美術 第二期5 イタリア・ルネッサンス1400~1460』(1975・新潮社)』『鈴木博之編『世界の建築6 ルネサンス/マニエリスム』(1982・学習研究社)』『ヴァザーリ著、平川祐弘・小谷年司訳『ルネサンス画人伝』(1982・白水社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルネサンス美術」の意味・わかりやすい解説

ルネサンス美術
ルネサンスびじゅつ
Renaissance art

14~16世紀,ヨーロッパ全域に興った革新的な美術。古代文化における人間性の復活,自然の再発見,個性の解放を特徴とした。イタリアでは,1300年頃のジョットを先駆者として,15世紀前半にマサッチオらによる人体解剖学の研究,遠近法などによる客観的写実主義が追求され,15世紀後半フィレンツェを中心にボティチェリ,マンテーニャが活躍。 16世紀にはローマ,ミラノ,ベネチアなどでミケランジェロラファエロレオナルド・ダ・ビンチ,ジョルジョーネ,ティツィアーノらの巨匠が出て盛期ルネサンスの絵画様式を完成。アルプス以北ではフランドルのファン・アイク兄弟,ワイデンらが写実的北方絵画の伝統を築き,16世紀に入ってドイツのデューラー,クラナハ,ホルバイン父子,アルトドルファーなどが活躍した。彫刻ではイタリアの自然観察や解剖学的研究をしたドナテロ,ベロッキオに続き 16世紀にはルネサンス最大の彫刻家ミケランジェロが活躍した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルネサンス美術の言及

【イタリア美術】より

…一方,ベネチアは最も安定した都市国家として,この間も,G.ベリーニ,ジョルジョーネ,ティツィアーノという形式と精神の幸福な一致を示す巨匠を生んでいる。ルネサンス美術
【マニエリスム】
 13世紀から15世紀末まで,実証的認識に価値を見いだしていた市民層の芸術であったルネサンスは,その社会の崩壊とともに危機を迎えた。市民の経済を支えていた地中海貿易は破産し,フランス,スペインはイタリアを植民地化し,宗教改革はローマ教会を直撃した。…

【ドイツ美術】より

… まず絵画では,デューラーとグリューネワルトとがドイツのルネサンスを代表する両雄である。前者はみずからイタリアへ赴いてルネサンス美術の教養を身につけ,合理的形態と線的表現手段とによってドイツ的心情に記念碑的形態を賦与した(《四人の使徒》1526)。後者の《イーゼンハイム祭壇画》(1515ころ)は燃えるような色彩によってドイツ的幻想性をうたい上げた作品である。…

【バロック美術】より

…ウェルフリンは,これらを〈絵画的〉〈深奥的〉〈不明瞭〉〈開放的〉〈統一的〉なビジョンと定義した。これはルネサンス美術の根本原理である〈線的〉〈平面的〉〈明瞭〉〈閉鎖的〉〈多様的〉と対立するものであると把握された。これは本質をつく見解ではあるが,今日では克服された一面性をもっている。…

※「ルネサンス美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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