18世紀古典派を代表するオーストリアの作曲家。
当時は独立したカトリック大司教領だったザルツブルクに生まれた。父親は大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバハに仕える音楽家レオポルト・モーツァルトであった。レオポルトは南ドイツの町アウクスブルクに生まれ,その家系からは建築師,彫像師,造本装丁師など親方が輩出していた。レオポルトと妻マリア・アンナとの間に生まれた7人の子どものうち,末子のウォルフガング・アマデウスと三女のマリア・アンナ(通称ナンネルル)だけが夭折を免れた。
姉ナンネルルも楽才を発揮したが,弟ウォルフガングは3歳からその天賦の才を父親に認められ,レオポルトは息子が4歳のときから音楽のレッスンを開始している。姉の楽譜帳を使ってのこのレッスンは父親の手で記録されているが,5歳の初めころから早くも作曲も試みられ,この楽譜帳の余白に,同じくレオポルトの手で記される(20世紀半ばに再発見されたクラビーアのための4曲の小曲K.61a~1d)。
こうした息子の神童ぶりをザルツブルク以外の土地でも披露しようと,1762年初めのミュンヘン旅行,つづいて同年秋から翌年初めまでのウィーン旅行が企てられる。ウィーンではシェーンブルン宮殿での女帝マリア・テレジアの前での御前演奏など数々のエピソードを生んだ。一家の旅行は,さらに続き,63年6月から始まる西方への大旅行は,ミュンヘンのバイエルン選帝侯宮廷再訪をはじめ,ドイツ各地の歴訪,ベルギーを経てパリ訪問,翌64年のロンドン訪問,さらに翌年のオランダ滞在,そして66年のパリ再訪からスイスを経て同年11月末のザルツブルク帰郷と足かけ4年にわたる長大なものであった。この間,ベルサイユ訪問とルイ15世の御前演奏,パリ在住ドイツ人作曲家(クラビーアとバイオリンのためのソナタの先駆者ショーベルトJohann Schobert,ピアノ・ソナタの最初期の作曲家エッカルトJohann Gottfried Eckardら)との出会いと最初のソナタの連作(クラビーアとバイオリンのため。K.6~K.9)の出版,ロンドンでのクリスティアン・バッハの薫陶,最初の交響曲(K.16,K.19,K.619aなど)の作曲,オランダでの大病といった数多くの経験をもっている。
帰郷後,作曲の勉強が続けられ,劇音楽のような大規模の作品が生み出されるが,翌67年秋から翌々69年初めにかけて行われた2度目のウィーン旅行で,モーツァルト姉弟はともに天然痘に倒れた。ウィーンでオペラ・ブッファ《にせのばか娘》(K.51・K.646a)やドイツ語オペラ《バスティアンとバスティエンヌ》(K.50・K.646b),あるいは《孤児院ミサ曲》(K.139・K.647a)などの大作や交響曲が生み出され,少年モーツァルトはすでに確実な作曲技術をおのれのものとした。
レオポルトはさらに息子にオペラ作曲の経験を積ませるべく,69年末に,今度は二人だけで,イタリア旅行を企て,翌々71年3月まで,ミラノ,ボローニャ,フィレンツェ,ローマ,ナポリ,さらにベネチアなど主要都市をめぐった。とりわけローマ教皇からの黄金拍車勲章の授与,ボローニャでの大音楽理論家G.B.マルティーニの薫陶と好楽協会会員への推挙,ミラノでのオペラ・セーリア《ポントの王ミトリダーテ》(K.87・K.674a)上演などがこの旅行の大きな収穫であった。オペラの本場イタリアでの成功は,なお,ミラノ再訪と再々訪を可能にし,71年10月上演の祝典劇《アルバのアスカーニョ》(K.111)と72年12月のオペラ・セーリア《ルーチョ・シッラ》(K.135)を生み出した。前者はマリア・テレジアの皇子フェルディナント大公の婚儀のためのものであった。
2度目と3度目のイタリア旅行の合間に,新大司教ヒエロニムス・コロレードの就任がさしはさまれる。前任者によって無給のコンツェルトマイスターに任じられていたモーツァルトは新大司教のもとで有給の処遇を受けることになる。イタリア旅行のあと,1773年には第3回ウィーン旅行,74年から翌年にかけてミュンヘン旅行がさしはさまれるが,モーツァルトはしばらくの間,新大司教のもとで,宮廷音楽家の職務を果たしていく。セレナードや協奏曲,さらに教会作品などが数多く生み出される。管弦楽の《ハフナー・セレナード》(K.250・K.6248b),《変ホ長調ピアノ協奏曲》(K.271)などがめぼしい作品である。
大司教コロレードとしっくりいかないモーツァルトは77年9月から翌々79年1月にわたって,就職口を探す旅に出た。いわゆる〈マンハイム・パリ旅行〉である。ミュンヘン,マンハイム,パリと続くこの旅行で,宮廷音楽家のポストは得られなかったモーツァルトではあったが,母親と二人で行った旅で得た音楽的経験は広く深く,また人生体験も豊かであった。いわゆる〈マンハイム楽派〉との触れ合い,マンハイムとパリでの交響曲,協奏交響曲,協奏曲,ソナタなどの作曲,アウクスブルクでのシュタインJohann Andreas Stein製作の優れたピアノとの出会い,この父親の故郷での従妹マリア・アンナ・テークラ(モーツァルトは〈ベーズレ(いとこちゃん)〉と呼んでいる)との交際,マンハイムでの歌手アロイジア・ウェーバーとの出会い,パリでの母親の死,帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋したことなどである。
けっきょく帰郷して,復職し,またしばらくの間宮廷音楽家の職務に従事し,《戴冠式ミサ曲》(K.317),協奏交響曲(K.364・K.6320d),交響曲(K.318,K.319,K.338)などを作曲する。80年11月,ミュンヘンに赴き,翌81年1月オペラ《クレタの王イドメネオ》(K.366)を上演するが,大司教にウィーンに呼び出され,同年春,父親の反対を押し切って辞職,そのままウィーンに定住した。フリーな音楽家として,ピアノ教授,作曲,予約演奏会,作品出版などで生計をたてることになる。
1781年末のヨーゼフ2世の御前でのM.クレメンティとの競演,82年夏のジングシュピール《後宮からの誘拐》(K.384)の上演などがモーツァルトのウィーン・デビューを飾っている。また82年にはアロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと結婚した。ファン・スウィーテン男爵との出会いから北ドイツのバロック音楽に触れるなど,音楽活動はきわめて順調であった。83年ザルツブルク帰郷を挟み,84年暮れにはフリーメーソン結社に加わる。このころハイドンにささげられた6曲の《ハイドン四重奏曲》やピアノ協奏曲などの力作,傑作が多数生み出されている。ニ短調の《ピアノ協奏曲》(第20番。K.466)が名高い。85年には父親の来訪があり,このあと取り組んだ大作オペラ・ブッファ《フィガロの結婚》(K.492)は,翌86年5月に初演されたが,イタリア人オペラ作家たちの妨害運動さえ引き起こした。ライバルとしてとりわけ宮廷作曲家サリエリの名が挙げられている。
このあたりから,モーツァルトの実生活面にかげりがみられるようになる。演奏活動はあまり頻繁でなくなり,借金生活が重なるが,その理由は現在でもつまびらかにされていない。しかし,創作活動はさらに充実し深まっていく。87年4月,ベートーベンの訪問を受け,翌5月末父親を失う。この年には《ト短調弦楽五重奏曲》(K.516)のような短調作品が生み出される一方,《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》(K.525)のような晴れやかな名曲も書かれている。名作《ドン・ジョバンニ》(K.527)はこの年の作品であるが,ドン・フアン伝説によるこのイタリア語オペラは,主人公の死を扱う点や劇的表現の点でいわゆるオペラ・ブッファ(喜歌劇)の域を越え出ている。このオペラは10月末ボヘミアの首都プラハで初演されたが,ウィーンに帰ったモーツァルトはヨーゼフ2世から〈皇王室宮廷作曲家〉に任じられている。おりしも大作曲家グルックが死んだ直後であった。
翌88年夏にはいわゆる〈三大交響曲〉(第39番K.543,《ト短調交響曲》第40番K.550,《ジュピター交響曲》第41番K.551)が書かれたが,当時,モーツァルトはピアノの弟子もなく,演奏会も開かれず,フリーメーソンの盟友プフベルクに借金を重ねたまま逼塞状態にあった。翌89年春,リヒノフスキー侯に誘われて,北ドイツ旅行を試み,プラハを経て,ドレスデン,ライプチヒ,ベルリンを訪れ,ポツダム宮殿でプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム2世に謁見し,また作品の依頼を受けている。
この89年に書き始められたオペラ・ブッファ《コシ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)》(K.588)は翌90年1月にウィーンで初演されている。この年ヨーゼフ2世が没し,弟のレオポルト2世が即位し,その戴冠式がフランクフルト・アム・マインで行われた。モーツァルトは自費でその祝典に参加したが,経済的困窮はいっそう重いものとなった。コンスタンツェのバーデンでの療養生活はこのような家計をさらに圧迫することになる。
91年には最後の《ピアノ協奏曲》(第27番K.595)やクラリネット協奏曲(K.622)が書かれたほか,興行師シカネーダーの依頼で,ジングシュピール《魔笛》(K.620)が作曲された。9月末に初演されたこのドイツ語オペラはしだいに成功を収めていくが,それに先立って見知らぬ男から注文を受けたという《レクイエム》(K.626)の作曲やボヘミア王としてのレオポルト2世の戴冠式祝典オペラ《ティート帝の慈悲》(K.621)のプラハ初演などがさしはさまれる。《レクイエム》の作曲は《魔笛》の初演後も続けられるが,健康を害したモーツァルトは11月20日に病床につき,《レクイエム》未完のまま,12月5日世を去った。死因についてはさまざまな論議があり,腎不全などの病死説(直接の死因としては過度な瀉血による致死説も含む),水銀による毒殺説などがある。葬儀の日も,従来の12月6日説のほか,最近では12月7日説も登場している。ザンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された遺体のありかは確認されていない。ウィーン中央墓地にはベートーベン,シューベルトと並んで記念碑が建てられている。
未完に終わった《レクイエム》は,のちに弟子のジュースマイヤーFranz Xaver Süssmayr(1766-1803)の手で完成された。モーツァルトの死後,追悼,追慕の気運はおおいに高まり,モーツァルトの未亡人コンスタンツェと二人の遺児カール・トーマスとフランツ・クサーワーには,友人,知人,愛好家たちの暖かい援助の手が差し伸べられた。伝記が書かれ,遺品類は整理されたが,こうした点でのちにコンスタンツェが再婚したデンマークの外交官ニッセンGeorg Nikolaus Nissen(1761-1826)の功績ははなはだ大きい。
モーツァルトは先輩であり,師であり,友人であったヨーゼフ・ハイドンとともに,古典派を代表し象徴する作曲家であるが,両者はまことに対照的な存在である。ハイドンは晩成であり長寿であったが,モーツァルトは神童として注目され,若くして巨匠となり,わずか35歳で夭逝している。ハイドンは長く宮廷音楽家の職に安んじていたが,モーツァルトは束縛を嫌い,後半生はフリーな音楽家として活動し,そして力尽きた。モーツァルトもハイドンも,古典派時代の音楽のほとんどすべてのジャンルを手がけているが,後者を先駆者とすれば,前者はその先業を受け継ぎ,さらにそうしたジャンルのそれぞれを多様化し,また深化したものといえよう。ピアノ・ソナタ,弦楽四重奏曲,交響曲などの分野で,ハイドンが築いたものに,モーツァルトは味わい深い個性的なものを付け加えたというべきだろう。モーツァルトはピアノ協奏曲でこのジャンルの芸術的完成を果たし,さらに教会作品,とりわけオペラで,ハイドンを凌駕している。モーツァルトのウィーン時代のオペラは以後2世紀にわたるオペラ劇場の恒常的なレパートリーとなった。
モーツァルトの死後,彼の音楽は,しだいに広く強く世人の関心を引きつけ,作品の出版はしだいに数多くなっていった。また19世紀半ばには生地ザルツブルクにモーツァルトの芸術の保護振興を目的とする機関(現在の国際モーツァルテウム財団)が設けられ,モーツァルト音楽祭(現在のザルツブルク音楽祭やモーツァルト週間)が企てられた。さらにモーツァルトの作品の目録(L.vonケッヘルによる《モーツァルト全作品目録》1862。K.(ケッヘル番号)はその番号,K.6は第6版の番号)が作成され,そして全作品を網羅する《モーツァルト全集》が刊行された。
モーツァルトの父レオポルトは,息子の音楽活動をきめこまかに記録し,またモーツァルト自身もウィーン時代には自分の創作活動を丹念に記録している。またモーツァルト一家が残した手紙類も多く,伝記的な資料にも事欠かない。モーツァルトはただ単に音楽家としてばかりか人間としても魅力ある存在であった。そのような人間モーツァルトも後代のモーツァルト愛好家の関心をそそっている。〈ベーズレ〉にあてたモーツァルトの手紙はそのかろやかで流れるようなスタイルで,カノンのような彼の声楽のジャンルを思わせるし,他方,父親にあてた最後の手紙(1787年4月4日付)にみられる死の想念は,彼の円熟した時期の短調作品をしのばせる。
このようなモーツァルトの人間と音楽の魅力は,死後およそ2世紀間,音楽家ばかりか,メーリケ,プーシキン,キルケゴールをはじめ文人,画家,哲人,その他あらゆる分野の人たちの発言を誘ってきた。20世紀に入って,モーツァルトの作品の再発見も相次ぎ,また作品と手紙の網羅的な新全集(1955-)も刊行され,また18世紀の演奏様式の研究によって,あるがままのモーツァルトの形姿が,響きの点でも後世の人たちに十全なかたちでとらえられるようになっている。さらにモーツァルトの人と作品は,芸術家たちにかっこうの創作上の素材をこれまた多様なかたちで提供している。
執筆者:海老沢 敏
ドイツの作曲家。W.A.モーツァルトの父。アウクスブルクに生まれ,ザルツブルク大学で法律を学んだ。学業半ばで音楽家を志し,同地の貴族の従僕兼楽師になった。1743年からザルツブルク大司教宮廷楽団バイオリン奏者を務め,最後には副楽長のポストを得た。宮廷楽団の中心メンバーとして,いわゆる〈ザルツブルク楽派〉の代表作曲家の一人となった。教会作品をはじめ,交響曲,協奏曲,セレナード,ディベルティメント,室内楽曲,クラビーア・ソナタなど数多くの作品を残した。また《バイオリン教程》(1756)の著者としても知られ,バイオリン教授法,演奏法の分野にも足跡を印している。
執筆者:海老沢 敏
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オーストリアの作曲家。西洋音楽の歴史が生んだ最大の大家の1人。1月27日、ザルツブルクに生まれ、1791年12月5日、ウィーンに没する36年にわずかに満たない短い生涯に、数多くの名曲を残した。父レオポルトJohann Georg Leopold M.(1719―1787)はザルツブルク大司教の宮廷楽団のバイオリン奏者(のち副楽長)で、作曲家としても活躍。また三男四女の末子ウォルフガング誕生の年に著した『バイオリン奏法』は、その分野の古典的文献である。
[大崎滋生]
幼少時から父親によって天才教育が施されたモーツァルトは、すでに5歳のとき最初の作品を書いたといわれる。しかし、こうした最初期の作品はほとんど父の書いた原稿の形で伝わっており、それらにおいて父親が果たした役割は推測の域を出ない。父レオポルトは息子を音楽に関心の深い人々の前で披露し、名声を得ようとし、また同時に、多くの刺激を息子に与えて、その実りの豊かな発展を期待した。たいていはこうした目的で企てられたたび重なる旅行が、彼の生涯を彩っている。延べ日数にするとその旅行は10年以上にも及び、生涯の4分の1以上が旅の間に過ぎていったといえる。ことに1770年代までに行われた相次ぐ旅行は、当時ヨーロッパの各地でそれぞれ独自に展開していた音楽を吸収する絶好の機会となったし、その影響が刻々と変化するさまは、その作品にはっきりと跡づけることができる。しかしもちろん、こうした少年時代からの肉体的な消耗が、早逝の遠因をつくったことも否めないであろう。また、こうした数多い旅の間に家族と取り交わしたおびただしい手紙が、彼の生活ぶりや考え方、作品成立の事情、また18世紀後半の音楽情況などをよく伝えてくれる。
6歳の誕生日の前後に行ったミュンヘンへの24日間の旅行が最初のものであったが、このときに関してだけ記録が残っていない。翌1763年6月(7歳)に開始されたパリ―ロンドン旅行は、1766年11月(10歳)までの3年半近くにも及び、生涯で最大の旅行であった。音楽の重要な中心地を巡りながら、各地の宮廷で演奏し、教会でオルガンを弾き、道中や仮住まいの家で作曲をする、という旅であった。ミュンヘンをはじめとするドイツ各地を経て、出発から5か月すこしたってパリに到着、5か月滞在する。同地で活躍するショーベルトJohann Schobert(1735ころ―1767)らドイツ人作曲家たちの影響を受け、バイオリン・ソナタを作曲、この作品集の刊行(1764・パリ)が彼の最初の出版となる。続いて1765年7月までロンドンに15か月滞在するが、とくにここではヨハン・クリスチャン・バッハ(J・S・バッハの末子)と一家をあげて親しくつきあった。こうして、かつてミラノにいたJ・C・バッハを通じて、当時の音楽界をリードしていたイタリア様式を学んだ。その成果が初めての交響曲創作(6曲、うち2曲は消失。K19aと番号をつけられた1曲は長らく失われていたが、1981年に再発見された)として現れている。その後約15か月をかけてオランダ、ベルギー、フランス、ドイツ各地を巡って、ザルツブルクに戻ったときは貴族から贈られた多くの金輪時計、小箱などを手にしていた。
約9か月を故郷に過ごすが、その間の1767年初めには最初の劇作品である宗教劇『第一戒律の責務』、ラテン語喜劇『アポロンとヒアキントス』が書かれた。同年9月ウィーンへ出発、15か月滞在。その間にオペラ・ブッファ『ラ・フィンタ・センプリーチェ(みてくれのばか娘)』、ジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』、最初のミサ曲『荘厳ミサ曲ハ短調』(K47a)、6曲の交響曲などを作曲した。1769年はほとんど故郷で過ごし、ミサ曲ハ長調(K66)、その他短い宗教音楽、実際踊られるためのメヌエット集、オーケストラのためのセレナーデなどを作曲、10月にザルツブルクの大司教宮廷のコンサートマスターに任命された。
1769年12月中旬に初めてのイタリア旅行に出発、約15か月滞在。イタリアにはその後1771年8月から4か月、1772年10月から4か月と、計3回旅行している。イタリアでは主としてオペラ(『ポントの王ミトリダーテ』『アルバのアスカニオ』『ルチオ・シッラ』)、8曲の交響曲、6曲の弦楽四重奏曲、オラトリオ『救われしベトゥーリア』などを書いたが、いずれもイタリア様式の新鮮な影響が濃く映し出されている。第2回と第3回イタリア旅行の間約10か月ほどザルツブルクの自宅で過ごしたが、この間に、これまでモーツァルト父子がたびたび提出する休暇願につねに寛大であったザルツブルクの大司教シュラッテンバッハ伯ジギスムントが世を去り、後任はコロレド伯ヒエロニムスとなった。その就任祝いのために劇的セレナータ『スキピオの夢』を書いて上演するかたわら、8曲の交響曲を作曲している。
[大崎滋生]
第3回イタリア旅行から戻って1773年3月から4か月ザルツブルクに落ち着いていた間には、4曲の交響曲、3曲のセレナーデないしディベルティメント、ミサ曲ハ長調(K167)を作曲。しかし、ザルツブルクという小さな町の、大司教を中心とした音楽生活に明るい見通しをもたなかった父子は、同年7月から2か月間ウィーンを訪れ、就職口を探した。就職の面ではよい成果が得られなかったものの、この旅行は新しいウィーンの音楽(ハイドン、ガスマンら)を十分に吸収する役目を果たし、彼の作品に新風が吹き込まれた。そうした影響をよく示すものに6曲の弦楽四重奏曲(K168~173)がある。
1773年9月末から翌1774年12月までの1年2か月をザルツブルクで送るが、この時期に書かれたいくつかの作品は、神童から大作曲家への転換がおこりつつあることをよく示している。初めての短調交響曲(ト短調・第25番。1773.10)や次のイ長調の交響曲(第29番。1774.4)などがその例である。しかし同時に、このころから新大司教の政策がはっきりと打ち出されるようになり、モーツァルトの創作活動にも大きな影響を及ぼすことになる。旅に出て職務をなおざりにすることは制限されるようになったから、ザルツブルクでより多くの時間を使うことになり、いきおい、同地の音楽生活と密着した作品が数多く生み出されるようになった。その一つは教会音楽であり、しかも礼拝音楽の簡素化を求めた大司教の意向によって、いわゆる略式ミサ(ミサ・ブレビス)が多く書かれた。一方、ザルツブルクの大学や貴族とかかわりの深い、軽い器楽曲や各種の協奏曲などもこの1770年代中盤に多く作曲された。唯一の例外は、オペラ作曲の依頼を受け、『偽りの女庭師』上演のために1774年暮れにミュンヘンに行ったことである。その3か月の滞在中に当地での就職の可能性を探るが失敗。現存する最初の6曲のピアノ・ソナタはこの時期に成立している。
請願書を出してようやく彼だけが旅行を認められ、1777年9月、母親と2人でマンハイム―パリ旅行へ出発する。約16か月に及ぶこの旅行も、彼の音楽様式の発展に大きな影響を与えた。ピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタ、フルートのための協奏曲や四重奏曲、交響曲ニ長調(「パリ」第31番)などにそれはよく現れているが、この旅行でも目的としたよい就職口はみつからず、結局1779年1月にザルツブルクに戻った。帰郷後、宮廷オルガニストの職を得た彼には、一見平穏な宮廷音楽家としての日々が続くが、1780年11月にミュンヘンからふたたびオペラ『クレタの王イドメネオ』の依頼を受け、その上演のため赴いた旅行は、彼の生涯において決定的なものとなった。6週間の予定の休暇がすでに4か月にもなって、当時首都ウィーンに滞在中であった大司教に呼びつけられて叱責(しっせき)を受けたことをきっかけに、ついに1781年5月に辞表を提出した。その後、大司教の部下に足蹴(あしげ)にされる事件も起こり、そのまま、だれにも雇われない自由な音楽家として、ウィーンに居着いてしまった。
[大崎滋生]
1781年後半から生涯を閉じるまでの10年半の月日は、オペラを上演し、各種の演奏会に出演し、弟子をとり、楽譜を出版するなどして生計をたててゆくという、近代的な音楽家の生活を実践したのである。また1782年8月には、マンハイム時代に恋愛関係にあった歌手アロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと、父の反対を押し切って結婚している。しかもこの時期には、彼の創作を代表する数々の傑作が生み出されている。オペラの分野では『後宮からの逃走』(1782)、『フィガロの結婚』(1786)、『ドン・ジョバンニ』(1787)、『コシ・ファン・トゥッテ』(1790)、『魔笛』(1791)、『ティトゥス帝の慈悲』(1791)などの、今日世界中のオペラ劇場の演目として定着している諸作品が書かれ、交響曲の分野でも「第35番」以後のもっともポピュラーな6曲、弦楽四重奏曲では「ハイドン・セット」とよばれる6曲(1782~1785)を含む、いずれも質の高い10曲が書かれた。また教会音楽家としての職務からも解放されたので、いずれも未完に終わったミサ曲ハ短調とレクイエム、そして数少ない小規模な宗教音楽を除けば、この種の音楽は書かれなかった。それとは対照的に、この時代の彼の生活をよく示しているのが、17曲に及ぶピアノ協奏曲である。これらは、自ら主催する自作自演の演奏会が自活のための重要な手段であったことを物語っている。とくに1785年の「第20番」以後の7曲は、この分野における歴史上最初の頂点を形成している。またザルツブルクの音楽生活と関係の深かったディベルティメント、セレナーデ、カッサシオンといったジャンルは減り、かわってメヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスといった、実際に踊られるためのおびただしい舞曲が書かれた。ウィーンの音楽要求にこうした形でこたえることは、定収のない作曲家としてはやむをえないことであった。ウィーン時代のその他の際だった事件としては、当時流行していた秘密結社フリーメーソンへの加入(1784)があげられる。これは彼の創作や思想に少なからぬ影響をもったし、実際にこの団体のために音楽をいくつも書いている。
1780年代の前半から中盤にかけて、ウィーンでの新しい生活も順調に運び、父との再会のため約4か月ザルツブルクに旅行した以外にはウィーンを離れなかったが、1787年から、3度にわたるプラハ旅行、ベルリンおよびフランクフルト訪問といった短期間の出稼ぎ旅行が目だっている。これは、ウィーンでの活動に陰りがみえ始めたことを反映していると思われる。このころから借金申込みの手紙も多くなり、経済的に逼迫(ひっぱく)していったことがうかがわれるが、記録に残されている彼の収入は驚くほど多く、今日も借財の理由は明らかになっていない。そして1791年の秋から健康がしだいに衰え、11月20日病床に伏し、12月5日、息を引き取った。葬儀は翌日、シュテファン大聖堂内部の十字架小聖堂で行われたが、最後まで遺体に付き添った者がいなかったため、共同墓地に埋葬され、遺骸(いがい)は行方不明となった。現在、聖マルクス墓地にある墓には遺骨は埋められておらず、ウィーン中央墓地にもベートーベンと並んで記念碑が立てられている。
[大崎滋生]
モーツァルトの残した作品は声楽、器楽にわたりきわめて多く、これをケッヘル番号(KとかK・Vと略記)でよぶことが一般化している。これは1862年にオーストリアの植物学者・音楽研究家のケッヘルが作成した『モーツァルト作品目録』に端を発している。作曲年代順に通し番号をつけたこのカタログは、その後何度もの改訂を受け、曲によっては二重番号が付されて煩雑なものになっているが、研究の進展により、今日なお再度の改訂が必要である。
[大崎滋生]
『アインシュタイン著、浅井真男訳『モーツァルト――その人間と作品』(1961・白水社)』▽『属啓成著『モーツァルト Ⅰ生涯篇、Ⅱ声楽編、Ⅲ器楽編』(1975~1976・音楽之友社)』▽『海老沢敏、E・スミス編『モーツァルト大全集』10巻・別巻1(1976~1979・中央公論社)』▽『海老沢敏・高橋英郎訳『モーツァルト書簡全集』全6巻(1976~2001・白水社)』▽『W・ヒルデスハイマー著、渡辺健訳『モーツァルト』(1979・白水社)』▽『P・ネットゥル著、海老沢敏・栗原雪代訳『モーツァルト叢書17 モーツァルトとフリーメイスン結社』(1981・音楽之友社)』▽『海老沢敏著『モーツァルトの生涯』(1984・白水社)』▽『E・J・デント著、石井宏・春日透道訳『モーツァルトのオペラ』(1985・草思社)』▽『海老沢敏著『モーツァルト』改訂版(1986・音楽之友社)』▽『井上和雄著『モーツァルト心の軌跡――弦楽四重奏が語るその生涯』(1987・音楽之友社)』▽『海老沢敏他著『モーツァルト全集』15巻・別巻1(1991~1993・小学館)』▽『海老沢敏著『モーツァルトを聴く』(岩波新書)』▽『田辺秀樹著『モーツァルト』(新潮文庫)』▽『柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』(岩波文庫)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
1756~91
オーストリアの作曲家。ザルツブルクの音楽家一族の出身で,幼時から楽才を示し,各種の音楽様式を巧みに摂取してドイツ古典音楽を確立した。1781年ウィーンに移住。生活は必ずしも恵まれなかったが,その短い生涯に交響曲,室内楽,歌劇など600以上も作曲した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…フランスではJ.M.ルクレールが,コレリ以来のソナタにフランス宮廷器楽の語法を融合させ,フランスにおけるバイオリン音楽の真の基礎を築いた。また18世紀中ごろには,最初の教則本であるジェミニアーニの《バイオリン奏法》(1751)や,L.モーツァルト(1756),サン・セバンJoseph‐Barnabé Saint‐Sévin(1727‐1803。通称ラベ・ル・フィス)(1761)による奏法に関する優れた著作も現れている。…
…ユゴーの《東方詩集Orientales》(1829),ラマルティーヌの《東方紀行》(1835)などがロマン主義文学者による代表例である。音楽では,モーツァルトの《後宮よりの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。美術の分野では,ロマン主義の代表者ドラクロアの《アルジェの女たち》(1834),《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》(1826)などが東方への熱い思いを伝えるが,アングルのような新古典主義の画家による《グランド・オダリスク》(1814)など,ロマン主義に限らず幅広い層の関心をあつめた。…
…完成されたハイドン様式は,動機労作による統一的形式,集中的展開を特徴とするが,そうした知的造形ばかりでなく,ユーモアあふれる親しみやすさも同時に兼ね備えている。 円熟期に向かうハイドンと相互影響の関係にあったモーツァルトは,8,9歳(1764,65)ころから1788年にかけて,セレナーデなど他ジャンルからの転用やオペラ序曲,断片楽章等を含めると54曲ほどの交響曲を残している(1980年には最初期の曲(K6.19a)の全曲が発見された)。彼の様式は,ソナタ形式をはじめ古典的諸形式の完成に寄与する一方,概してハイドン的な動機労作の徹底よりは多くの魅力的な楽想の並列,精妙な和声的色彩と管・弦が有機的に絡み合う管弦楽法を特徴としている。…
…狭義には1770‐1830年のハイドン,モーツァルト,ベートーベンを中心とする約60年間のウィーン古典派音楽をさす。このうちベートーベンは古典派音楽を完成しつつ次に来るロマン主義への志向を示している。…
…盛期古典派では,交響曲と同様,舞曲楽章としてメヌエットが,さらにベートーベンではスケルツォが組み入れられ,4楽章のソナタも出現した。 作曲家としては,前古典派ではさまざまな楽派が独自の様式を形成していったが,とくにイタリアのG.B.サンマルティーニ,D.アルベルティ,L.ボッケリーニ,スペインで活躍し550を超える鍵盤ソナタを残したD.スカルラッティ,スペインのA.ソレル,ウィーンのG.C.ワーゲンザイル,マンハイムのJ.シュターミツ,北ドイツの多感様式の代表者フリーデマン・バッハ,ハイドンに影響を与えたエマヌエル・バッハ,J.G.ミュテル,パリのJ.ショーベルト,ロンドンで活躍し若いモーツァルトに影響を与えたJ.C.バッハ,そしてベートーベンに影響を与えたM.クレメンティらの名はよく知られている。盛期古典派では,クラビーア・ソナタの傑作群がハイドン(五十数曲),モーツァルト(25曲),ベートーベン(32曲)の3巨匠によって生み出された。…
…バッハ,モーツァルト,ベートーベン,ブラームス,ワーグナーらに代表されるドイツ音楽の偉大さがしばしば語られる。しかし,ドイツ音楽を簡単に定義することはできない。…
…芸術音楽においても18世紀から19世紀にかけてその語法を取り入れた多くの作品が書かれた。モーツァルトの《ピアノ・ソナタ》(K.331)の第3楽章のトルコ行進曲は最も有名であるが,そのほかモーツァルトの《バイオリン協奏曲第5番》(K.219)もフィナーレにこの語法を取り入れている。また,M.ハイドンも付随音楽《ピエタス》(1767)にトルコ行進曲を含み,《ザイール》(1777)にもトルコ組曲が含まれている。…
…モーツァルトが1787年に作曲した全2幕のオペラ・ブッファ(K.527)。同年10月プラハの国民劇場においてモーツァルト自身の指揮で初演された。…
…この方式はシュタインJohann Andreas Steinらによって改良され,1790年代のウィーンで完成の域に達した。これは一般にウィーン式アクションと呼ばれて一時ドイツとウィーンで流行し,ハイドン,モーツァルト,フンメル,ベートーベン,チェルニーらが愛用した。一方,イギリスでは突き上げ方式が発達し,1776年にエスケープメント(離脱装置)も発明され,ブロードウッドJohn Broadwood(1732‐1812)がさまざまな改良を加えて,1790年代にイギリス式アクションによる標準的なピアノを完成させた。…
…フィガロは17,18世紀フランス喜劇に多い下僕像の集大成である。【鈴木 康司】(2)ボーマルシェの戯曲をダ・ポンテLorenzo da Ponte(1749‐1838)がイタリア語の台本にし,モーツァルトが1785年に作曲した4幕のオペラ。《Le nozze di Figaro》(K.492)。…
…事実その自由,平等,博愛という信条はフランス大革命のスローガンに援用されるほど進歩的であったために,18世紀の啓蒙主義思潮と結びつきやすかった。たとえばフランスのアンシクロペディスト(百科全書派)たちをはじめ,ドイツではレッシング,ゲーテ,フィヒテのような知識人,ハイドンや《魔笛》《フリーメーソンのための葬送曲》を作曲したモーツァルトのような芸術家の支持を得たほか,啓蒙君主(フリードリヒ2世,フリードリヒ・ウィルヘルム1世)や大貴族(フィリップ・エガリテ公,G.J.D.vonシャルンホルスト)の間にも支持層をひろげた。とはいえその政治的イデオロギーは明確ではなく,のちにイタリア統一やフランス第三共和政下の反カトリック運動に一定の役割を果たし,フランス革命前夜にも穏健な共和主義を鼓吹した一方,革命末期にはかえってジャコバン党に迫害されてギロチン台に送られた会員も少なくない。…
…モーツァルトの最後のオペラ(K.620)で,2幕からなる。没年の1791年にウィーンで作曲,初演された。…
…ウィーンを中心に,魔法劇のジングシュピールが流行したのも一つの先駆といえる。モーツァルトの《魔笛》からシューベルトの《魔法のハープ》(1820)へ向かうこの幻想劇の線に沿って,ホフマンの《ウンディーネ》(1816),ウェーバーの《魔弾の射手》(1821)が生まれる。ウェーバーはまた《オベロン》(1826)でも序曲冒頭に〈魔法のホルン〉のモティーフを使って,ロマン的妖精劇を展開した。…
※「モーツァルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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