ドースト・ムハンマド(その他表記)Dūst Muḥammad, Amīr

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドースト・ムハンマド」の意味・わかりやすい解説

ドースト・ムハンマド
Dūst Muḥammad, Amīr

[生]1793
[没]1863
アフガニスタンバーラクザーイー朝創始者 (在位 1826~63) 。 1818年カシミールから進攻してペシャワルカブールを落し,ドゥラーニー朝領地であるヘラートを除いて,すべての領土を奪い,26年の国土分割でガズニー,カブール,ジャラーラーバードを領有して王朝を建て,王位についた。その後,復位をはかるドゥラーニー朝のシャー・シュジャーと王位を争い,38年イギリスの援助を受けたシャー・シュジャーと戦い (第1次アフガン戦争 ) ,敗れて捕えられた。シャー・シュジャーの復位後,アフガニスタン全土で反乱が起った。この機をとらえてドースト・ムハンマドは脱出したが,カブールのイギリス軍に降伏し,インドに追放された。 43年許されて帰国。その頃,イギリスの手によって復位したシャー・シュジャーは,イギリス軍撤退後,暗殺され,再びドースト・ムハンマドは実権を握った。その後もイギリス軍と戦ったが,55,57年イギリスと条約を結び,インド大反乱の中は対英協力政策をとった。治世の後半 20年の間に,カンダハール,マザーリシャリフを手中に収め,63年にはヘラートを占領したが,その 13日後に死去。王朝は第3子のシェール・アリーに受継がれた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ドースト・ムハンマド」の意味・わかりやすい解説

ドースト・ムハンマド

アフガニスタンのバーラクザイ朝の創始者。ドゥッラニー朝の宰相家柄に生まれ,1818年同朝滅亡後,8年間の無政府状態を収拾して,1826年王位についた。1838年ロシアの援助を受けイランとの戦争には勝利したが,1839年イギリス・アフガニスタン戦争中に英国屈服。2年後,子のアクバル・ハーンが英国に復仇した後は親英的となり,インド大反乱では英国に協力。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のドースト・ムハンマドの言及

【アフガニスタン】より

…しかし王としての彼の権威は,個人的能力と,ドゥッラーニー諸族長の勢力の均衡に頼るものであった。19世紀に入ってドゥッラーニー内部の勢力争いの結果,バーラクザイBārakzaiがサドーザイに代わって統治権を得,1826年,ドースト・ムハンマドDōst Muḥammad(1793‐1863)が王となった。以後のアフガニスタンの王位は,彼の家系が継承することになり,彼の名をとってムハンマドザイ(またはバーラクザイ朝)と呼ばれる。…

【バーラクザイ朝】より

…1826‐1973年。アフガニスタンの建国者アフマド・シャー・ドゥッラーニーの出たサドーザイとは別の家系であり,ここからドースト・ムハンマドDōst Muḥammad(在位1826‐39,43‐63)が出て,サドーザイと抗争ののち,1826年,アフガニスタンの支配権を掌握した。彼の後,ムハンマド・アフザル,アブドゥル・ラフマーン,ハビーブッラー,アマーヌッラーAmānullāh(在位1919‐29)と王位が父子相伝され,アフガニスタンの国家形成に貢献した。…

※「ドースト・ムハンマド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android