改訂新版 世界大百科事典 「ニーダーエスターライヒ」の意味・わかりやすい解説
ニーダーエスターライヒ
Niederösterreich
オーストリア北部の州(ラント)。オーバーエスターライヒに接してドナウ川の下流に広がるオーストリアの主要な穀作地帯の一つであり,州都はザンクト・ペルテンSankt Pölten(人口4万9000,2004)。面積1万9178km2,人口156万(2004)。
地理
住民の大半は農業に従事しており,ライムギ,コムギ,トウモロコシ,テンサイがおもな産物である。また,ワッハウWachau谷地方はドナウ川両岸の斜面にブドウ畑が作られ,良質のワインの産地として知られている。ツィスタースドルフZistersdorfの油田は,1928年から採油され出したが,ドイツの支配下に生産量は急増し,38年5万6000tであったのが,44年120万tを達成した。戦後ソ連軍の管理下にあっても生産量は増大を続け,54年には340万tにまで達した。石油はソ連への主要な賠償手段となった。
ニーダーエスターライヒの工業は大半がウィーン盆地に集中しており,ワッハウ谷の北方は広大な森林地帯がチェコとの国境まで続いていて,住民は林業に従事している者も多い。
歴史
古代には,ドナウ川を境に,北はゲルマン人が居住し,南は,ローマ帝国の属州下にあった。6世紀以降,アルプス前地にバイエルン族が進出,7世紀には,東部にスラブ人の移入がみられた。8世紀末にフランク帝国の版図に編入され,10世紀末には,辺境伯領が設けられた。バーベンベルク家の支配の下で,ドナウ川沿いに都市が形成され,なかでもウィーンには,辺境伯(のち大公に昇格)の居城が置かれた。13世紀後半には,ハプスブルク家の支配下に入り,オーバーエスターライヒとニーダーエスターライヒとが分離し,後者はハプスブルク家の家領の中心となった。18世紀以降ウィーン盆地を中心に産業が発達し,19世紀には,ウィーンを含むニーダーエスターライヒに,他国他邦からの人口流入が激しくなった。第1次大戦後,ハプスブルク帝国の崩壊とともにチェコスロバキアとハンガリーが独立,ニーダーエスターライヒは,オーストリアの国境地帯を構成することとなった。1921年には,行政州の一つとなり,ナチス第三帝国による併合(1938-45),戦後のソ連邦による占領(1945-55)を経て,現在に至っている。
文化
ニーダーエスターライヒの文化は,ドナウ川と密接に結びついて発展している。上流のパッサウからドナウ川に沿って下ってイップスYbbsをすぎると,ワインの産地ワッハウ谷に入ってくる。9世紀のワイテンエックの古城の廃墟を左岸に見て,しばらくするとメルクMelkの町に着く。ドナウ川右岸の断崖50m上にそびえる白亜の建物は,ベネディクト会修道院(メルク修道院)であり,バロック建築では最も壮麗なものの一つである。この修道院の図書館はカトリック関係の蔵書7万冊を有するといわれている。メルクから少し下ると,右岸には岩上に造られたシェーンビューヘルの大城,アッグシュタイン城の廃墟が見えてくる。近くの左岸にある小村ウィレンドルフWillendorfは,有名な〈ウィレンドルフのビーナス〉とよばれる旧石器時代の裸女像が発掘されたところである。シュピッツはゴシックの美しい教会があり,その下流には〈ワッハウの真珠〉といわれるデュルンシュタインDürnsteinの古城が見える。有名な獅子心王リチャード1世は十字軍の遠征行でこの城に捕らえられていたといわれる。この地方の中心地クレムスは,ドナウ川観光のおもな舟航地で,夏は多くの観光客でにぎわう。クレムスをすぎるとウィーン盆地に入る。そこはウィーンの森の東端レオポルツベルクの丘が連なり,クロスターノイブルクKlosterneuburgのバロック建築の大修道院が聳立(しようりつ)する。この一帯もワインの産地である。やがて船は終着港ライヒス・ブリュッケに着くが,ここはウィーン郊外の有名なプラーター遊園地のすぐ近くである。
執筆者:住谷 一彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報