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ハンガリー史 ハンガリーし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ハンガリー史
ハンガリーし

古代においては現在のハンガリーの地はパンノニアと呼ばれ,イリュリア人が居住していたが,前 35年ローマ領となった。4世紀末からフン,東ゴート,ゲピード,スラブ,アバールらの諸民族が次々に侵入,ようやく9世紀末にウラル方面からマジャール族 (ハンガリー人) が現れ,アールパード朝を立て,国家を建設,さらにビザンチン帝国,大モラビア国,南ドイツなどに侵入。アールパード朝の諸王はドイツ王オットー1世 (大帝) に敗北 (955) 後,部族割拠主義を押え,西ヨーロッパ的な国家制度の導入に努め,10世紀末イシュトワーン1世 (聖王) の時代に王国をキリスト教化した。その後スロバキア,トランシルバニア,クロアチアなどを合せ,12世紀には中欧随一の雄国となった。モンゴル人の襲撃 (1240~41) によって国力は一時衰えたが,アンジュー家の支配 (1308~86) ,特にラヨシュ1世 (大王〈在位 42~82〉) は中世ハンガリーの黄金時代を築き,封建制度を確立した。その後,外来王朝の支配が続いたが,フニャディ家のマーチャーシュ1世コルウィヌス (在位 1458~90) 時代に軍事的,経済的に再び興隆し,文化的にも中欧の一大中心となった。しかしモハーチの戦い (1526) 後,ブダペストを含む中部地方がオスマン帝国に侵略され,西部地方もハプスブルク家の所有となったため,16~17世紀はカルバン派の侯家のもとに自治を許されたトランシルバニアがハンガリーの政治,文化生活の中心となった。オーストリアがオスマン帝国の勢力を駆逐し (1683~99) ,さらにハンガリー独立戦争 (1701~11) で勝利を得るに及んで,ハンガリーはハプスブルク帝国の一地方となった。民族復興の機運が盛上がったのは,ようやく 19世紀のことであった。ハンガリーは,1848年の蜂起挫折後,67年のいわゆる「アウスグライヒ (和協) 」によってオーストリア=ハンガリー帝国の一半を支える自治王国の地位を獲得し,再びスロバキアからクロアチアにいたる広大な領土を支配した。第1次世界大戦までの 50年間はなお封建階級の支配下にありながら,経済的に大いに繁栄した。しかし大戦に敗北し,スロバキア,トランシルバニア,クロアチアなどの放棄を強いられて (1918) ,ソビエト政権 (19) を経て,立憲君主制となり,摂政ホルティ提督の権威主義的統治のもとに政治的,経済的に停滞した。第2次世界大戦に際し,ドイツ側に加担して若干の領土を回復したが,戦争末期にドイツ軍に占領され,ソ連軍によって解放された。戦後,短期の議会民主制のあとに,48年勤労者党 (共産党) の事実上の1党独裁体制が確立,ソ連圏に組入れられた。スターリン主義的な強制的工業化政策は,56年にハンガリー動乱を招き,ソ連軍の介入のあと,61年からカーダール体制のもとで慎重な経済の自由化が実施された。 1980年代には市場原理が導入され,政治的にも 89年複数政党制の導入が決定された。同年9月東ドイツ難民がハンガリー経由で西側に脱出することを公認,これはベルリンの壁崩壊につながった。 10月に共和国宣言。 90年3月総選挙が行われ,民主フォーラムを中心とする連合政権 (首相アンタル) が誕生し,社会主義政権は終焉。ゲンツが共和国初代大統領に就任した。

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