日本大百科全書(ニッポニカ) 「アウスグライヒ」の意味・わかりやすい解説
アウスグライヒ
あうすぐらいひ
Ausgleich
オーストリア・ハンガリー間の1867年の協定。「1848年の革命」ののち、絶対主義に復帰したハプスブルク帝国では、産業発展の相対的立ち後れ、帝国内諸民族の台頭、対プロイセン戦争敗北(1866)に伴う国際的地位の低下などにより、帝国内の支配民族たるオーストリア・ドイツ人は帝国支配に危機を感じた。また、一方でスラブ主義に対する脅威もあったため、戦争の敗北を機に、その打開をマジャール人との同盟に求めた。他方、マジャール人は、1848年まで帝国内でスラブ系を含む少数民族を従えてハンガリー王国を支配形成していたが、1848~1849年の対オーストリア独立戦争に敗れ、以後内外で独立運動を継続していた。しかし、独立した場合のドイツ、ロシアの脅威、ハンガリー内での農民や少数民族の運動の高揚、慢性的資金・信用不足などの理由から、しだいに帝国の保全とそのなかでの利益の確保をより得策とみるようになった。ここに両者のアウスグライヒ(和協)が実現し、オーストリア皇帝を共通の君主とする二重王国が成立した。この協定の締結により両国は経済的にも大いに発展を刺激され、とくに、オーストリア大資本家とハンガリー大地主の帝国支配の強化をもたらすことになった。
[家田 修]