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バルボ バルボBalbo, Cesare

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

バルボ
バルボ
Balbo, Cesare

[生]1789.11.27. トリノ
[没]1853.6.3. トリノ
イタリアの政治家,歴史家,文芸評論家。リソルジメント (国家統一運動) 期の穏健派の指導者,1848年サルジニア王国の首相。ルネサンス前期の文化史と文学研究に貢献。主著『ダンテの生涯』 Vita di Dante (1839) ,『イタリア史要説』 Sommario della storia d'Italia (46) 。

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世界大百科事典 第2版の解説

バルボ【Italo Balbo】

1896‐1940
イタリアファシスト政治家。ポー平原に生じた農村ファシズムの推進者で,暴力的な懲罰遠征を数多く組織する。1922年10月のローマ進軍を4首脳の1人として指揮。ファシズム政権のもとで全国治安義勇隊最高司令官,国民経済政務次官,航空大臣を歴任し,この間大西洋横断編成飛行に成功して人気を博した。33年リビア総督となり,40年トブルク上空を飛行中に誤って自軍の高射砲に撃墜された。【北原 敦】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

バルボ
ばるぼ
Cesare Balbo
(1789―1853)

イタリアの歴史家、政治家。サルデーニャ王国の重臣の家庭に生まれる。ナポレオン体制下のイタリアで種々の行政官を務め(1807~1814)、王政復古とともにピエモンテの軍隊に入り、自由主義的なカルロ・アルベルト公の知遇を得た。1821年のピエモンテ立憲革命に反対であったが、アルベルト公や連座した友人との関係で嫌疑を受け、10年に及ぶ謹慎生活を過ごした。この間、歴史研究と政治的思索に没頭し、『イタリア史』(1830)を著した。その後『ダンテの生涯』(1839)や『イタリア史概要』(1846)を書いたが、主著である『イタリアの希望』の発表(1844)によって穏健派の代弁者となった。この書で、ジョベルティの新(ネオ)グェルフ主義からカトリック自由主義と漸進的改良主義を受け入れ、教皇主導主義を排してピエモンテのイニシアティブによる国際関係の変化にイタリア独立の希望を託した。本書は、1831年以来ピエモンテの国王になったアルベルト公の内諾を得ていた。バルボは、1847年カブールと協力して『リソルジメント』紙をトリノで発行し、立憲運動を推進した。翌1848年アルベルト憲法発布後、最初のピエモンテ首相となり、ただちに対オーストリア戦争を宣言したが、ロンバルディアの併合問題をめぐって議会と対立し、7月に辞任。1849年以降、右派議員の長老として政治活動を続けたが、研究活動により力を注いだ。[重岡保郎]

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世界大百科事典内のバルボの言及

【ファシズム】より

…ファシストの襲撃行為には行動隊squadraが編成され,復員士官,地主や商人の子弟,学生などが加わり,〈懲罰遠征〉と称して都市から農村へ出かけて,社会党,〈同盟〉,協同組合の活動家や事務所を襲撃した。このポー平原のファシズムのなかから,フェラーラのバルボ,クレモナのファリナッチらラスras(エチオピアの地方豪族の意味)と呼ばれる地域ごとの実力者が生まれ,彼らは行動隊の暴力の行使に依拠して地域社会の支配権を確立した。こうしたポー平原のファシズムは農村ファシズムと特徴づけられて,ムッソリーニらの都市ファシズムと区別されたが,農村ファシズムの大衆運動によって,ムッソリーニの活動も息を吹き返した。…

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