日本大百科全書(ニッポニカ) 「パストリアス」の意味・わかりやすい解説
パストリアス
ぱすとりあす
Jaco Pastorius
(1951―1987)
アメリカのジャズ・ベース奏者。本名ジョン・フランシス・パストリアスJohn Francis Pastorius。ペンシルベニア州ノーリスタウンに生まれ、6歳までフィラデルフィアで過ごし、7歳のとき一家でフロリダに移住する。父親がドラムを演奏していたので8歳からドラムの練習を始めるが、15歳のときベースに転向する。フロリダでリズム・アンド・ブルース・バンドに参加、プロ・ミュージシャンとしての活動を開始。
1971年トランペット、サックス奏者アイラ・サリバンIra Sullivan(1931― )と共演、編曲を提供する。1974年、リズム・アンド・ブルース・ミュージシャン、リトル・ビーバーLittle Beaver(1945― )のアルバム『パーティー・ダウン』で初レコーディングを経験、同年ピアノ奏者ポール・ブレイ、ギター奏者パット・メセニーらとリハーサル・セッションを行うが、後にこれがブレイの設立したIAIレーベルから発表される(『ジャコ』Jaco(1974))。この年、マイアミ大学でベースの講師をしていたとき、ピアノ、キーボード奏者ジョー・ザビヌルに出会い、音楽的才能を認められる。1975年、ロック歌手ジョニ・ミッチェルJoni Mitchell(1943― )のアルバム『ミンガス』にサイドマンとして参加、ついで、初リーダー作『ジャコ・パストリアスの肖像』(1975)を録音、また、メセニーの初リーダー作『ブライト・サイズ・ライフ』にサイドマンとして参加する。翌1976年、ザビヌルとテナー・サックス奏者ウェイン・ショーターによる双頭バンド、ウェザー・リポートに加わり、アルバム『ブラック・マーケット』(1975、1976)、『ヘヴィー・ウェザー』(1976)の録音に参加し、圧倒的なテクニックと優れた音楽性により、一気にファンの注目を集める。
以後ウェザー・リポートに参加しつつ、ミッチェル、ピアノ、キーボード奏者ハービー・ハンコックらのアルバムに参加、そして1980年には意欲的なリーダー第二作『ワード・オブ・マウス』を録音、バンド・リーダーとしての才能も示す。1982年(昭和57)自らのビッグ・バンドを率いて来日し、オーレックス・ジャズ・フェスティバルに出演、この時の演奏はアルバム『TWINS Ⅰ&Ⅱ』として発売された。この年、自由な時間を求めウェザー・リポートを脱退するが、このころより奇行が目だつようになる。1986年ニューヨークで精神科病院に入院。1987年泥酔の末トラブルを起こし、撲殺される。
彼のベース奏法は、フレットレスのエレクトリック・ベースを使用し、非常に素早いフレーズを完璧(かんぺき)に弾きこなすだけでなく、音色も深みのある個性的なものだった。そしてバンド・リーダーとしても優れた才覚を示したが、精神の失調のため、その早すぎる晩年の演奏は評価することが難しい。だが、1970年代から1980年代初頭にかけて、リーダー作を含めさまざまなミュージシャンたちとの共演で示した優れた音楽的才能は、同時代の多くのベース奏者に決定的な影響を与えた。
[後藤雅洋]