パピノー
Louis-Joseph Papineau
生没年:1786-1871
イギリス領北アメリカ,ロワー・カナダ植民地の政治家。1837年のロワー・カナダにおける反乱の指揮者として知られる。モントリオールに生まれ,1808年に立法議会に選出。1812年戦争への従軍で中断したのち,14年再び議員となり,15年から37年まで,わずかな中断を除いて議長を務めた。当時のロワー・カナダ政界では,イギリス人総督と官吏を中心とする〈城砦閥〉の寡頭政改革を要求して,フランス系カナダ人〈愛国者〉が議会を通じて闘っていたが,パピノーはその指導者と仰がれた。34年の〈92ヵ条決議〉もかえって改革派の間の分裂を惹起するだけの結果となり,37年〈愛国者〉は決起したがあえなく鎮圧され,パピノーはアメリカ合衆国に逃亡した。その後大赦令が出され,パリ,ロンドンを経て44年カナダに帰国。
再び政界に復帰したが往年の影響力は振るえず,54年引退した。孫にフランス系カナダ・ナショナリズムの推進者として知られるJ.N.H.ブーラサがいる。
執筆者:大原 祐子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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パピノー
Papineau, Louis-Joseph
[生]1786.10.7. モントリオール
[没]1871.9.24. ケベック,モンテベロ
カナダの政治家。 1808年ローワーカナダ植民地下院に選出されたのち,一時弁護士を開業。アメリカ=イギリス戦争 (1812) に従軍,14年再び下院議員となり,15~22,25~26,28~37年ローワーカナダ植民地下院議長をつとめた。議長としてローワーカナダ総督と城砦閥の統治政策,特に両カナダ併合案および財政政策に異議を唱え,34年ローワーカナダ植民地議会はパピノーの指導下に,フランス系カナダ人の主張を盛った「92ヵ条の決議」を通過させるにいたった。イギリス議会はこれに対し弾圧的な処置で報い,ローワーカナダでは各地で抗議の大衆集会が開かれた。 37年にローワーカナダで反乱が起ったが,パピノーは自身が逮捕者名簿に含まれているのを知り,反乱をみずにアメリカへ亡命。その後パリへおもむき,44年の大赦令によりモントリオールへ帰った。 48年連合カナダ植民地議会に選出されたが,往年の力はふるえずに 54年公生活を引退。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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パピノー
ぱぴのー
Louis Joseph Papineau
(1786―1871)
イギリス領ロワー・カナダ(現ケベック州)の政治家。1814年ロワー・カナダ立法議会下院議員に選出されて政界に入り、翌年から37年の反乱勃発(ぼっぱつ)まで下院議長を務めた。20年代、ロワー・カナダではイギリス総督を中心とする寡頭政治の改革を要求してフランス系「愛国者」が戦い、彼はその指導者に推された。34年、議会に「92か条の決議」を提出するなどの議会を通じての改革運動に失敗した「愛国者」は、37年秋彼を中心として蜂起(ほうき)したが、あえなく鎮圧され、彼はアメリカ合衆国に亡命。のちに大赦によりカナダへ戻り議員生活を続けたが、往年の指導力は発揮できなかった。「ケベック独立運動の祖」と仰がれるが、彼自身は急進的思想家ではなかったといわれる。
[大原祐子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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