パルマ(英語表記)Parma

デジタル大辞泉 「パルマ」の意味・読み・例文・類語

パルマ(Palma)

スペイン東部、地中海のマリョルカ島西岸にある港湾都市バレアレス諸島の行政の中心で、オレンジ・ぶどう酒などを輸出。観光地。

パルマ(Parma)

イタリア北部の都市。農業のほか食品工業が盛んで、パルメザンチーズの本場。スタンダール著「パルムの僧院」の舞台。

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精選版 日本国語大辞典 「パルマ」の意味・読み・例文・類語

パルマ

  1. ( Palma ) 正式名称は、パルマ‐デ‐マリョルカ。地中海西部、スペイン領バレアレス諸島の主都。マジョルカ(マリョルカ)島の南西岸にある。前三世紀にローマの植民都市として建設され、一三世紀アラゴン王国領となり、のち、スペイン王国に編入。軍事上の要地。陶器製造が盛ん。現在、観光地化され、ヨーロッパの避暑地として有名。

パルマ

  1. ( Parma ) イタリア北部の都市。農業のほか食品工業が盛んで、パルメザンチーズの本場。スタンダール著「パルムの僧院」の舞台。

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改訂新版 世界大百科事典 「パルマ」の意味・わかりやすい解説

パルマ
Parma

イタリア北部,エミリア・ロマーニャ州の同名県の県都。人口17万4471(2004)。エミリア街道沿いの平野に位置し,ポー川の支流パルマ川が市内中央を流れる。州都ボローニャに次ぐ第2の都市である。農産物の集散地,食品工業の中心地。生ハム,パルメザン・チーズは有名である。スタンダールの小説《パルムの僧院》で知られるパルマは,ローマの植民都市として発達し,12,13世紀には自由都市であったが,ミラノのビスコンティ家の領地を経て,1513年教皇領となる。45年,ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世は息子のピエル・ルイジに,ピアチェンツァとともにパルマ公国として与えた。以後1731年までファルネーゼ家の支配となる。次いで,スペインのブルボン朝が統治(1731-1808)し,フランスの風俗が深く浸透するところとなる。オポレオンによってフランス領とされ,ウィーン会議の結果パルマ公国はオーストリアに帰属することになった(1815-47)。1860年サルデーニャ王国に統合される。1922年8月には,約2万人のファシスト行動隊と市民の間に壮烈な闘いが交わされ,同隊の市への進入を阻んだ実績をもつ。

 文化的伝統を有する町で,16世紀にはバロック絵画の先駆をなすコレッジョが活躍した。また,マニエリスムの画家パルミジャニーノは同市の出身である。音楽では,作曲家G.F.F.ベルディはパルマ県の小村ロンコレ(ブセート)に生まれ,指揮者A.トスカニーニはパルマ音楽院に学んだ。パルマ大学は,イタリア最古の大学の一つで,すでに11世紀には自由七科を教授しており,12世紀には医学と法学が著名であった。
執筆者:

あせたばら色の煉瓦造のサンタ・マリア・アスンタ(聖母被昇天)大聖堂は,玄関左右の柱を2頭のライオン像が背負い,3層のアーケードファサードを飾るロンバルディア・ロマネスク様式である。南翼廊(トランセプト)に置かれた《キリスト降架》(1178)の浮彫は,当地出身の彫刻家アンテーラミBenedetto Antelami(1150ころ-1230ころ)の傑作である。隣接する洗礼堂の装飾も,彼が手がけた。コレッジョはサン・パオロ修道院に天井画(1519),サン・ジョバンニ・エバンジェリスタ教会に《キリスト昇天》,大聖堂に《聖母被昇天》の円天井画を描いた。
執筆者: 国立パルマ美術館は,国立古代博物館とともに,ファルネーゼ家が1583-1622年に建てた(未完成)パラッツォ・デラ・ピロッタにある。所蔵作品は18世紀にパルマを支配したブルボン家のフィリッポにより,その収集が開始され,19世紀を経て,第2次大戦後には壁からはがされた壁画も加えられた。コレッジョの作品を核とする15世紀から18世紀のパルマ派絵画の歴史を展望することができる。
執筆者:


パルマ
Ricardo Palma
生没年:1833-1919

ペルーのロマン派の作家。1872年から1910年にかけて断続的に発表した《ペルー伝説集》は,全10巻から成る大作であり,征服以前から植民期を経て共和政にいたるペルーの風俗,伝説,歴史的逸話などをロマン主義的な手法で綴って,ひとつのジャンルを創造した。彼はこの作品でペルーの伝説と伝統を提示することにより,ペルー人としての国家意識と国民性の自覚を促している。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パルマ」の意味・わかりやすい解説

パルマ(プロサッカークラブ)
ぱるま
Parma Associazione Calcio

イタリアのプロサッカークラブ。ホームスタジアムはパルマのエンニオ・タルディーニ(収容人員2万9000)。チーム創設は1913年だが、セリエAに昇格したのは1990年代に入ってからである。乳製品会社のパルマラットがスポンサーにつき、クラブの経営に乗り出してから強豪にのし上がった。1992年、コパ・イタリアに優勝し、1993年にはヨーロッパ・カップウィナーズ・カップでも優勝した。過去、イタリア代表のフォワード、ジャンフランコ・ゾラGianfranco Zola(1966― )のほか、エルナン・クレスポHernan Crespo(1975― 、アルゼンチン)、ベロンJuan Sebastián Verón(1975― 、アルゼンチン)、リリアン・テュラムLilian Thuram(1972― 、フランス)といった錚々(そうそう)たる顔ぶれがプレーしているが、これまでリーグ優勝はない。2001~2002年シーズンには、ASローマ(イタリア)にいた中田英寿(なかたひでとし)(1977― )を獲得、優勝争いへ加わることが期待されたが、優勝争いどころか一時はセリエBへ降格の危機に瀕(ひん)した。2003年パルマラットが破産宣告を受け、クラブは破産管財人の管理下に置かれた。2004年、名称をパルマFC(Parma Football Club)とした。

[西部謙司]

その後の動き

その後、クラブは競売にかけられ、2007年1月にトンマーゾ・ギラルディへ譲渡されることとなった。2008~2009年シーズンにセリエBに降格したが、2009~2010年シーズンにセリエAに復帰した。

[編集部]

『グレッグ・バーク著、佐藤邦雄訳『パルマの真実――イタリアサッカー・セリエAの1年』(1999・日刊スポーツ出版社)』


パルマ(イタリア)
ぱるま
Parma

イタリア北東部、エミリア・ロマーニャ州パルマ県の県都。人口15万6172(2001国勢調査速報値)。ミラノとボローニャを結ぶ交通の要衝。豊かな農業生産と同時に、中小規模ながら食品工業が発展、とりわけパルメザンチーズの本場として知られる。イタリア、バロック絵画の先駆者として16世紀に活躍した画家コレッジョの作品が、大聖堂やサン・ジョバンニ・エバンジェリスタ教会などにみられる。指揮者トスカニーニの生地である。

[堺 憲一]

歴史

紀元前4世紀なかばまでエトルリア人がこの地に定住していたが、ローマ時代に商業の中心地、毛織物の産地として発達した。ゴート人、フン人により破壊されるが、テオドリコ帝の治世下にビザンツの都市として再建され、とくに公金保管所のあったことで知られる。中世に司教領からコムーネ(自治都市)になり、フェデリーコ2世に抵抗するほどの実力を有した。現在の市の中心部はこの時期に建設された。1322年独立を失い、以後、教皇庁、ビスコンティ家(1346)、スフォルツァ家(1449)の支配下に入るが、経済的発展は停滞しなかった。1545年公国となる。だが政治的中心はピアチェンツァに移され、パルマはもっぱら居住都市として美化に努められ、またここに音楽文化が開花したのもこの時代である。18世紀なかばブルボン家が、ついでオーストリアがこの市を統治するが、1814年ナポレオン軍が占領、ナポレオンの二番目の妻マリ・ルイーズが、1860年イタリア王国に併合されるまでここを治めた。

[在里寛司]


パルマ(スペイン)
ぱるま
Palma de Mallorca

地中海のスペイン領バレアレス諸島の行政中心都市。諸島中最大のマジョルカ(マヨルカ)島西岸、パルマ湾奥に位置する港湾都市で、司教座所在地。人口33万3801(2001)。良港をもち、軍事・交易の要衝であるため、アラゴン連合王国のマジョルカ王国成立(1229)によりその首都となるまで、支配者が次々と交替した。1716年まではシウダド・デ・マヨルカCiudado de Mallorcaとよばれた。島内諸方向へ向かう鉄道・道路の基点をなし、港は大型船の接岸が可能。東方に空港もある。国際的な観光・保養地で、海水浴場があり、ホテル、レストランなどが多く、観光業が第一の産業となっている。1961年の人口は16万にすぎなかったが、フランコ政権下での観光地化政策による急激な観光客の増加に伴い本土から建設・観光業従事者として多量の人口が流入した。ゴシック様式のパルマ大聖堂(1300~1601建造)、教会、宮殿、ロンハ(取引場、1451)など歴史的建築物が多い。

[田辺 裕・滝沢由美子]


パルマ(Ricardo Palma)
ぱるま
Ricardo Palma
(1833―1919)

ペルーの小説家、詩人。若いころ渡欧しボヘミアンの生活を送り、スペインの詩人ソリーリャに傾倒して、『調和』(1865)などの詩集を発表。また、ユゴーやロングフェローを翻訳。帰国後はホセ・バルタ大統領の秘書官、上院議員を務め、1884年リマ国立図書館長に就任。詩作品、歴史書も数多く残すが、彼の名を高めたのは1872年から1910年まで書き続けた『ペルー伝説集』である。この作品の大半は植民地時代に題材を得ているが、単なる伝説、挿話あるいは風刺文として分類できるものでなく、それぞれの要素がみごとに融け合い、ペルーの風俗、習慣が鮮やかに活写された物語集となっている。

[安藤哲行]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パルマ」の意味・わかりやすい解説

パルマ
Parma

イタリア北部,エミリアロマーニャ州パルマ県の県都。ミラノ南東約 120km,ポー川の支流パルマ川にのぞみ,エミリア街道の要地を占める。前 183年にローマの植民地が建設され,行政,商業の中心地として発達。 1512年に教皇領となり,45年以後 1731年までファルネーゼ家が支配し,その保護を受けて芸術,文化が栄えた。現在農産物の加工業が多く,パルメザン・チーズは世界的に有名。そのほかアルコール,肥料,ガラス,機械,化学などの工業が行われる。 11世紀創設の大学があり,ほかにコレッジオの『聖母被昇天』があるロンバルディア・ロマネスク様式の大聖堂 (12世紀再建) がある。フランスの作家スタンダールが一時過し,ここを舞台に『パルムの僧院』 (1839) を書いたことでも知られる。人口 18万6690(2011推計)。

パルマ
Palma, Jacopo

[生]1480. セリーナ
[没]1528. ベネチア
イタリアのベネチア派の画家。本名 Jacopo d'Antonio Nigretti。別名パルマ・ベッキオ。生涯のほとんどをベネチアでおくった。 G.ベリーニに学んだとされるが,その田園牧歌的趣味や色彩法などにはむしろジョルジョーネの影響が強く,またティツィアーノの影響も認められる。彼の画風は,『ヤコブとラヘルの出会い』 (ドレスデン国立絵画館) や『サクラ・コンベルサツィオーネ (聖なる会話) 』などのように,のどかな田園風景を背景にして情緒的な人物像を配し,そこに明朗な詩情を盛込むのを得意とした。また,サンタ・マリア・フォルモーサ聖堂祭壇画の『聖バルバラ』など,婦人像にも傑作が多い。

パルマ
Palma

正式名称パルマデマヨルカ Palma de Mallorca。スペイン東方,地中海西部,バレアレス諸島,マヨルカ島の南西岸に位置する港湾都市。バレアレス州,バレアレス県の県都。前 123年ローマの植民地となる。6世紀にビザンチン帝国の支配下に入り,8世紀アラブ人に征服され,1229年アラゴン王家の所領となる。穀物,オリーブ油,アーモンド,オレンジなどを積出す。主産物は家具,陶器,装飾ガラス,羊毛製品など。古代アラブ王朝の居城や中世に建てられた建築物が多く残されている。人口 29万 6754 (1991推計) 。

パルマ
Palma, Ricardo

[生]1833.2.7. リマ
[没]1919.10.6. リマ
ペルーの作家,政治家。 1868~72年上院議員をつとめたが,その後国立図書館の責任者の地位にあり,創作や批評活動に励んだ。 72~1910年に発表した『ペルー伝説集』 Tradiciones peruanasが有名。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パルマ」の解説

パルマ(リカルド)
Ricardo Palma

1833~1919

ペルーの作家,詩人。反カスティリャ反乱に参加し,1860年チリに亡命。太平洋戦争に従軍し,チリの占領で破壊された国立図書館の再建に努めた。代表作は1872~1906年にかけて書かれた『ペルー伝説集』である。全10巻からなり,インカ時代から共和国時代までのペルーの風俗,伝説,寓話,逸話をモチーフとして史実を織り交ぜながら描いた。

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百科事典マイペディア 「パルマ」の意味・わかりやすい解説

パルマ

イタリア中部,エミリア・ロマーニャ州の都市。エミリア街道に沿いポー川の支流パルマ川が市内を流れる交通の要地。機械,食品加工などの工業が行われ,特に生ハム,パルメザン・チーズが有名。大学(1065年創立),12世紀の聖堂などがある。前183年ローマの植民市となり,16―18世紀はファルネーゼ家の支配する公国。中世から公国時代には学問・芸術の中心地であった。17万5895人(2011)。

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367日誕生日大事典 「パルマ」の解説

パルマ

生年月日:1835年7月9日
キューバ大統領(1902〜06)
1908年没

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世界大百科事典(旧版)内のパルマの言及

【ゴレ[島]】より

…小島であるが,アフリカの歴史上重要な位置を占める。1444年,ポルトガル人がこの島を発見したときには無人島でパルマ島と名づけられた。彼らはここに商業基地を設け,奴隷,蜜蠟,アラビア・ゴムなどの集荷基地とした。…

【原子スペクトル】より

…原子が発する光と原子が吸収する光とは,一般に波長が等しい。
[水素原子のスペクトル]
 85年に,J.J.バルマーは水素原子の発する光のスペクトルの中のHα(波長6563Å,赤),Hβ(4861Å,青),Hγ(4340Å,青紫),Hδ(4102Å,紫)の4本の線スペクトルの示す波長λがλ=Am2/(m2-4)(m=3,4,5,6,Aは定数)で表されることを発見した。これらの線スペクトルの系列はバルマー系列と呼ばれるが,その後,T.ライマンによって紫外部に,また,L.C.H.F.パッシェンによって赤外部に,それぞれラインマン系列,パッシェン系列と呼ばれる線スペクトルの系列が発見され,バルマー系列を含めて,これらの系列の線スペクトルの波長λは,で表されることが明らかとなった。…

※「パルマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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