アメリカのジャーナリスト,新聞経営者。ハンガリーのブダペスト近郊に生まれる。1864年,南北戦争中のアメリカに渡り,リンカン騎兵隊に参加,67年アメリカに帰化した。68年セント・ルイスで,ドイツ語新聞《ベストリッヘ・ポスト》にレポーターとして入り,市政の腐敗暴露,おもしろいニュースの報道に活躍する。78年,破産して競売に付されていた《セント・ルイス・ディスパッチ》紙を買い,J.A.ディロン経営の《セント・ルイス・ポスト》紙と合併させ夕刊紙《ポスト・ディスパッチThe Post-Dispatch》の編集・経営にあたり,民衆の味方として汚職,大企業の不正に対するキャンペーンを繰り返し,新しいジャーナリズム手法を試みながら,同市の指導的新聞とした。83年にはニューヨークの新聞《ワールドThe World》紙を34万6000ドルでJ.グールドから買い,モルガンなど巨大企業の専横に対する攻撃,〈自由の女神〉の台座づくりの10万ドル基金キャンペーンなどで,巨大な部数と影響力をもつ新聞をつくりあげ,全米の新聞構造を大きく変える端緒をつくった。移民として多くの辛酸をなめた彼は素朴にデモクラシーの理念を信じ,社会正義の実現を願っていた。しかし,W.R.ハーストとの競争は,センセーショナリズムを助長し,あらゆるものをニュース化するとともに,広告費で支えられる巨大な新聞産業をつくり上げた。90年に引退を声明,特別製のヨットで療養生活を続けたが,死ぬまで編集スタッフへの方針指示はやめなかった。新聞記者の向上を願って彼は1903年,コロンビア大学に100万ドルを寄贈,同大はこれに基づき12年に新聞学部School of Journalismを発足させた。
執筆者:香内 三郎
J.ピュリッツァーがコロンビア大学に遺贈した50万ドルを基金に,1917年から毎年5月に,大衆に推奨できるアメリカ人の作品に贈られる賞。ジャーナリズム12部門(賞金各1000ドル),文学6部門,音楽1部門を対象とする。受賞者にはJ.レストン,W.リップマン,P.バック,A.ミラーらがおり,歴史ある文化賞である。
執筆者:山本 泰男
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アメリカの新聞人。ハンガリーに生まれる。1864年、南北戦争の際、北軍の募兵に応じて渡米、1868年、ミズーリ州セントルイスで発行されていたドイツ語紙『ウェストリッヘ・ポスト』の記者となり、1869年にはミズーリ州議員に選ばれ、やがて同紙の経営者となった。その後『ニューヨーク・サン』紙のワシントン通信員を務めたりしたが、1878年つぶれかかっていた『セントルイス・ディスパッチ』紙を買収、これを『セントルイス・ポスト』紙と合併して、『セントルイス・ポストディスパッチ』と改めて、どの党派にも属さず、行政を批判することを旗印として、数年のうちに利益をあげる新聞とした。1883年には『ニューヨーク・ワールド』紙を買収、センセーショナルなニュース報道でたちまちのうちに成功を収めた。1887年には『イブニング・ワールド』紙を創刊し、まもなくニューヨーク最大の部数を誇るようになった。1884年には下院議員に選出されたが、まもなく視力が衰えて、1890年ごろから保養地やヨットで生活することとなる。
しかし1895年ハーストが『モーニング・ジャーナル』紙を買収して、同じくセンセーショナルな新聞で『ワールド』紙と対抗するようになると、競争は激化、ことに互いの日曜版で色刷り漫画競争となり、その主役であったイエロー・キッドの名にちなんで、両紙はイエロー・ジャーナリズムという悪名を残すこととなった。1898年アメリカ戦艦メーン号爆沈後の両紙の報道は戦争熱をあおるものだとの非難を浴びた。1903年、ピュリッツァーはコロンビア大学に200万ドルを寄付、これをもとにして1912年には同大学に新聞学部がつくられ、記者教育が行われるようになった。また遺言により1917年にピュリッツァー賞が制定された。
[伊藤慎一]
『W・A・スウォンバーグ著、木下秀夫訳『ピュリツァー』(1978・早川書房)』
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…1833年デイBenjamin Dayの出した1ペニー新聞《ニューヨーク・サン》がそれであるが,現代型新聞の原型は,19世紀末から20世紀にかけて形成されたといえよう。すなわち,米西戦争(1898)をはさむ期間,J.ピュリッツァーの《ワールド》(1883年から所有)とW.R.ハーストの《ニューヨーク・ジャーナル》(1895年から所有)との,激烈な競争(イェロー・ジャーナリズム)のなかで,100万単位の部数,広告収入の確保,巨大資本による群小紙・誌の系列化,センセーショナリズムなど,現代新聞の特徴が生み出される。繁栄の1920年代には巨大企業による新聞チェーンの形成と系列化が進み,さらに30年代には,多くの新聞がF.D.ローズベルトのニューディール政策に反対して,党派的に〈偏向〉した報道を行った。…
…日本で赤新聞といわれるのがほぼ同義。1890年代,巨大企業と化したピュリッツァーの《ワールド》紙と,ハーストの《ニューヨーク・ジャーナル》紙は,常軌を逸した競争を展開する。《ワールド》の日曜版は,8ページの漫画セクションを出し,そのうちの4ページをカラーで印刷していた。…
…87年父が買い取っていた《サンフランシスコ・エグザミナーSan Francisco Examiner》紙の経営・編集にあたり大成功を収め,95年750万ドルの資金をもってニューヨークに進出,《ニューヨーク・ジャーナルNew York Journal》を買収した。ピュリッツァーの開拓した新聞手法をまね,かつそれを肥大化させ,また高給でスタッフを引き抜くなどして,イェロー・ジャーナリズムなどと攻撃されながらピュリッツァーと激烈な競争を展開し,現代大衆紙の原型をつくり上げた。1900年,シカゴに夕刊紙《アメリカンAmerican》,04年にはボストンで夕刊紙《アメリカン》を出し,初めて新聞の系列化を実現した。…
…76年にペンシルベニア鉄道会社会長スコットThomas A.Scottの手に移り,79年,金融業者グールドJay Gouldに売却された。ニューヨーク進出を企図したJ.ピュリッツァーは83年,部数が1万5000から2万部に低迷していたこの新聞を買収し,5月11日から彼の編集指揮の下で〈民衆の味方,政治家・企業の不正との闘い〉を宣言して,新しい型の大衆紙に再生させることに成功した。この間モルガン財閥の不正追及,パナマ運河スキャンダルの暴露などのキャンペーンをはった。…
※「ピュリッツァー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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