ドイツ観念論を創始した哲学者。
[高山 守 2015年3月19日]
5月19日、ザクセン地方の寒村ランメナウに生まれる。麻織り職人の子として絶望的な貧窮のなかで、1780年よりイエナおよびライプツィヒ大学において、神学、哲学、法学等を学ぶ。1789年のフランス革命に感激し、偶然カント哲学に接して感銘を受ける。1791年ケーニヒスベルクにカントを訪問、翌1792年カントの助力によって『あらゆる啓示の批判の試み』Versuch einer Kritik aller Offenbarungが出版され、一躍名声を博す。1794年イエナ大学に招聘(しょうへい)され、ここで『全知識学の基礎』等の主要著作を公にする。その後、無神論のかどで非難されて1799年イエナを去り、主としてベルリンに在住する。1800年『人間の使命』を出版、翌1801年には「知識学」の新たな構想を披瀝(ひれき)、このころを境に宗教的・民族的傾向を深め、いわゆる後期思想へと変転する。1806年『浄福な生への指教』公刊。1807年、ナポレオンに敗れた占領下のベルリンで、有名な『ドイツ国民に告ぐ』(1808)を講演し、ドイツの民族独立と文化の再建を説いた。1810年ベルリン大学創設とともに教授就任、翌1811年初代総長となる。1814年1月27日、傷病兵の看護に従事していた妻からチフスに感染し、死去した。
[高山 守 2015年3月19日]
1790年代、カントの哲学はドイツの思想、文学、学問の諸領域にあまねく浸透し、評価、受容、批判の渦を巻き起こした。このなかからフィヒテは、カントにも匹敵するほどの内実をもって登場した。彼は、「実践理性の優位」というカントの観点を引き継ぎ、これを徹底する。それによって、理論的、実践的な諸学のいっさいの究極的な成立根拠を明らかにしようとした。ここにフィヒテが生涯を通じてその体系構築に精力を傾けた「知識学」が打ち立てられる。「知識学」は、端的に確実な知識、すなわち「私は存在する」という自我意識に立脚する。自我とは自由に行為することにおいて端的に存在する実践的な主体である。これを「事行」(タートハンドルンク)とよぶ。自我・事行は、学問およびあらゆる知識の基盤である諸事実の根底に存し、それを成立させる根源的な活動である。つまり、主観的、客観的を問わず、およそいっさいの事実は、実践的な自我・事行の活動の所産なのである。「知識学」は、こうした自我・事行のあり方を体系化することによって、すべての学問の、さらには知識一般の根拠づけを行うのである。しかし、この「知識学」は、著しく宗教的な傾向を強める彼の後期思想において、やがてその立脚点を自我から絶対者へと移す。フィヒテは、1801年、1806年、1810年、1812年と推敲(すいこう)を重ねることにおいて、すべての学問・知識、それに自我の究極的な根拠が絶対者、神に存することを明確にするのである。フィヒテの哲学とは主として前期知識学をさすが、この後期知識学も近来、存在論的観点から独自の意義を認識され始めている。
[高山 守 2015年3月19日]
『岩崎武雄訳『世界の名著43 フィヒテ他集』(1980・中央公論社)』▽『木村素衛訳『全知識学の基礎』(岩波文庫)』▽『大津康訳『ドイツ国民に告ぐ』(岩波文庫)』▽『南原繁著『フィヒテの政治哲学』(1959・岩波書店)』▽『隈元忠敬著『フィヒテ知識学の研究』(1970・協同出版)』▽『大峯顕著『フィヒテ研究』(1976・創文社)』▽『ヘーゲル著、戸田洋樹訳『フィヒテとシェリングの差異』(1980・公論社)』▽『ヘーゲル著、山口裕弘訳『理性の復権――フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(1982・アンヴィエル/1985/新装版・1994・批評社)』
ドイツ観念論を代表する哲学者。カントでは十分に統一されていなかった理論と実践,自然認識と道徳を,自我の根元的な能動性を第一原理として統一する。フランス革命の熱心な支持者であり,愛国者でもあったフィヒテの情熱的な個性が,自我と自由を形而上学に高める哲学を生んだ。〈ひとがいかなる哲学を選ぶかは,ひとがいかなる人間であるかによる〉(1797,《第一序論》)。この言葉は,自由への愛から観念論を選んだフィヒテその人の自画像でもある。彼はザクセンの貧しい職人の家に生まれた。幼少のころから聡明で,ある男爵が評判の高い牧師の説教を聞きそびれて落胆していると,そこへ呼び出された9歳のフィヒテは,説教を初めから終りまで語って聞かせたという。この男爵はその少年フィヒテを引きとって教育を受けさせた。イェーナとライプチヒで,神学,法学,哲学を修めて貧しい家庭教師を職としていたとき,カントに接し共鳴する。カントを訪問し,論文《あらゆる啓示の批判》を送り,借金の申込みをした。カントは金を貸す代りに,論文の出版を斡旋した。1792年匿名で出されたこの論文は,世人からカントの宗教論であると誤解され,カントは著者がフィヒテである旨を公表,一挙にして文名を高めたフィヒテはイェーナ大学に職を得る。フィヒテの熱弁を聴いて人々は堂にあふれたが,我執の人フィヒテには周囲との軋轢(あつれき)も絶えなかった。ある論文がきっかけになって,彼の立場には無神論という非難が浴びせられた。フィヒテは弁明し,言論の自由を訴え,〈政府の査問があれば,自分も,同僚のすべても直ちに職を辞するであろう〉と宣言した。ワイマール政府はフィヒテを罷免したが,フィヒテに従った同僚は一人もいなかった。この〈無神論論争〉でフィヒテに好意的だったプロシア政府が,彼を終生の地ベルリン大学に迎えた。
フィヒテは《全知識学の基礎》(1794)で,自我中心の体系原理を確立する。第1原則〈自我は根源的に絶対的に自己自身の存在を定立する〉,第2原則〈自我に対して絶対的に非我が反定立される〉,第3原則〈自我は自我の内に可分的な自我に対して可分的な非我を反定立する〉。根源的に能動的な自我の内部に,非我との限界・接点が存在する。以後彼は生涯にわたって〈知識学〉の改訂につとめた。フィヒテは全哲学体系の中心に自我を置く。自我の能動性と絶対性の主張者として近代哲学のドイツ的形態を代表する。自我中心主義を純粋に守った点でフィヒテこそドイツ観念論の唯一の哲学者とみなす解釈者もいる。倫理思想への〈衝動〉概念の導入,個人の自由を中心とした法哲学の体系化,ドイツの国民意識の鼓吹(《ドイツ国民に告ぐ》1808)によって,同時代のロマン主義,共和主義,国民主義に大きな影響を与えた。貧困に終始苦しめられたフィヒテには独自の社会主義的構想(交易の国家管理)もあり,M.ヘスに影響がみられる。知識学とフッサールの現象学,後期の存在思想とハイデッガーの存在思想との関連も指摘されるが,直接的影響関係はなかったものとみなされている。現代では存在論=倫理学を説くD.ヘンリヒに強い影響がみられる。
→ドイツ観念論
執筆者:加藤 尚武
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ドイツの哲学者。1762年,ドレスデン近郊のランメナウで紐織業者の家庭に生まれる。貴族の援助を得てプフォルタ学院で学び,1780年にイエーナ大学神学部に入学。翌年,ライプツィヒ大学へ移り,法学と哲学を学ぶ。貧困な生活の中で家庭教師の職につき,1790年からカント哲学の研究を始める。1794年にイエーナ大学教授となり,94~95年に『全知識学の基礎』を公刊。1798年に「無神論論争」によりイエーナ大学から退去せざるを得なくなり,ベルリンへ移る。1805年にエルランゲン大学教授,1806年にケーニヒスベルク大学教授。ナポレオン戦争によるハレ大学の閉鎖などにより,ベルリンに新しい大学を創設する動きが生じ,1806年に『ベルリンに創設予定の高等教育施設の演繹的計画』を完成。1807年から翌年にかけて,ベルリンのアカデミーで「ドイツ国民に告ぐ」の講演。「計画」が採用されることはなかったが,1810年にベルリン大学(現,ベルリン・フンボルト大学)が開設されると哲学部長となり,翌年,選挙による初代学長となった。
著者: 長島啓記
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
1762~1814
ドイツ観念論の哲学者。カントを継ぎ,理論理性と実践理性の統一を自我の根源的働きである「事行」において見出した。フランス軍占領下のベルリンで行った講演『ドイツ国民に告ぐ』は有名。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…理論的悟性の対象としては実在性を拒まれた理念は,実践的意志の対象としては実在性を回復する。フィヒテは神ないし絶対者を神的理念と呼び,現象界をこの根本の理念の顕現ないし像と見,人間の使命はこの像の認識を介して神的理念の実現とそれへの漸近とを努力すべきであると説く。ヘーゲルは世界史を貫いて発展する神の理性ないし絶対者を理念と呼び,哲学とは理念が弁証法的に展開して自己に還帰する過程の概念的把握とみなす。…
…またイデアは希求と願望の理想であり,近世的には理性概念すなわち理念として感性界に実現されるべき目標となる。ここに理想の追究ないし理念の実現を目ざす理想主義が近世の観念論の一つの型となり,フィヒテの倫理的観念論を代表とする。日本では左右田喜一郎と桑木厳翼とがカントとリッケルトの観念論を文化主義として継承した。…
…早熟の天才であり,15歳でチュービンゲン大学に入学を許され,5歳年長のヘーゲルおよびヘルダーリンと親交を結ぶ。19歳のときフィヒテの哲学を祖述した論文を発表し,哲学界に登場する。フランス革命への熱狂的な共感を,ヘーゲルやヘルダーリンと共有し,カント,フィヒテ,スピノザを学ぶ。…
…実体としての精神の解体は,ロックやヒュームらイギリス経験論の哲学者によって果たされたが,それに次いで今度は能動的活動の主体としての精神の概念が確立される。カントにおける実践の主体としての理性の概念,フィヒテにおける根源的活動性としての自我の概念,ヘーゲルにおけるおのれを外化し客観化しつつ生成してゆく精神の概念などにそれが見られよう。フランスにおいても,意識を努力と見るメーヌ・ド・ビラン,精神を目的志向的な欲求や働きと見るラベソン・モリアン,意識を純粋持続として,純粋記憶として,さらには〈生の躍動(エラン・ビタール)〉の展開のなかでとらえようとするベルグソンらの唯心論の伝統があるが,ここにも同じような傾向が認められる。…
…フィヒテが1794年から1813年にかけて執筆・講義した体系的論述の総称。従来《全知識学の基礎》(1794)を指す場合も多かったが,今日では研究の中心は変貌する〈知識学〉の全体的構造をとらえることに移っている。…
…カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。…
… デカルトやカントに代表される西洋近世・近代の観念論哲学では自我が探究の原点であり,すべての事物を自我の意識内容もしくは観念とみなす立場で認識問題や存在問題の考察を始めるのがたてまえである。この傾向の哲学的思索は独我論と結びつきやすく,たとえばカント哲学の一面を継承したフィヒテは,非我の存在はすべて自我により定立されるから独我論こそ観念論哲学の正当な理論的帰結であり,物や他我の実在は実践的,宗教的な〈信〉の対象であるほかないと説いた。類似の見解は17世紀のデカルト派や,ロック以後のイギリス経験論者にも見られる。…
… フレーベルの教育思想の根底には,汎神論的色彩の濃い宗教観と特有なロマン主義的世界観・人間観が横たわっているが,それはいわば生涯のテーマであった〈生の合一〉という理念に集約的に表現されている。教育思想史上の系譜からいえば,J.J.ルソーの自然主義や消極教育論,ペスタロッチの基礎陶冶論や民衆教育の思想,フィヒテの国民教育論などからの影響を強く受けているが,それらをふまえ,19世紀前半から中葉にかけてのドイツにおいて,近代的な統一国民国家の形成という歴史的課題をも念頭におきつつ,自由で自立的な国民の形成へと通じる人間教育の課題を,とりわけ幼児教育の領域で実践的に追求し,独自な教育の理論と思想を結実させていった。それは児童神性論や受動的・追随的教育論,共同感情論,人間の連続的発達観などによって特色づけられるが,なかでも子どもの自己活動の原理にもとづく遊びと作業教育の理論には,現在なお学ぶべきものが多く含まれている。…
…その結果1758年に9万2000余であった人口は86年には14万7000に増えるが,それは同時に,当時世界で最も美しい都市の一つといわれた市壁内のベルリンと,北のローゼンタール門,ハンブルク門,南のシュレジエン門,コトブス門の外に広がる市外区との対照的な発展の開始,すなわち社会問題の登場をも意味していた。 18世紀末から19世紀初めにかけベルリンは,科学アカデミー(1700設立)の会員にA.vonフンボルト,ゲーテ,フィヒテを迎え,しだいにフランス文化の影響を脱しつつあった。ドイツ古典主義の誕生を告げるといわれるブランデンブルク門が造られたのもこの時代(1791完成)である。…
※「フィヒテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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