ブットー(英語表記)Bhutto, Zulfikar Ali

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ブットー
Bhutto, Zulfikar Ali

[生]1928.1.5. ラルカナ
[没]1979.4.4. ラワルピンジー
パキスタンの政治家。カリフォルニア大学バークリー校,オックスフォード大学修士課程卒業。 1958年 M.アユーブ・カーン政権に商相として入閣,敏腕を発揮し,1960年代初めに対中国関係の改善に尽力。 63年外相となったが,タシケント宣言に反対して 66年6月辞任。「インド=パキスタン千年戦争論」を提唱。伝統文化に立脚した社会主義を標榜し,67年 11月カラチで人民党を結成。第3次印パ戦争後の 71年 12月 20日大統領に就任。 72年7月対インド和平協定に調印。 73年8月新憲法を制定して首相制を復活,みずから首相に就任,政権を固めた。 77年3月の総選挙で大勝したが,野党9党のパキスタン国民連合が選挙の不正を唱えて大規模な反政府デモを続けたため,同年7月軍の無血クーデターで失脚,投獄された。 78年3月政敵暗殺その他の罪で死刑を宣告され,79年4月処刑された。

ブットー
Bhutto, Benazir

[生]1953.6.21. カラチ
[没]2007.12.27. ラワルピンディー
パキスタンの政治家。現代イスラム圏で初の女性首相を務めた。ズルフィカール・アリー・ブットー元首相の娘で,1973年ハーバード大学,1977年にオックスフォード大学で学士号を取得。1979年,父がクーデターで失脚後に処刑され,父の率いたパキスタン人民党 PPPの党首となる。ハク政権下の 1979~84年に何度も自宅軟禁に処され,1984~86年イギリスに亡命。1988~90年,1993~96年首相を務めたが,2度とも汚職疑惑で解任された。1999年実業家で上院議員の夫,アシフ・アリー・ザルダリとともに汚職で有罪判決を受けたが,2001年最高裁判所がこれを覆した。2007年10月,ペルベズ・ムシャラフ大統領の恩赦により 8年間の亡命生活を終えてドバイから帰国。帰国直後のパレードの車列をねらった自爆テロでは危うく難を逃れたが,選挙集会中に暗殺された。

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百科事典マイペディアの解説

ブットー

パキスタンの政治家。シンド州の大地主の出身。1967年にパキスタン人民党(PPP)を結成。大統領(1971年―1973年),首相(1973年―1977年)を歴任。文民統制,主要産業の国有化,土地改革などを打ち出したが,軍や資本家層の反発を招いて1977年のクーデタで失脚。1979年,処刑された。長女ベーナジール・ブットーは,パキスタン首相(1988年―1990年,1993年―1996年)。

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世界大百科事典 第2版の解説

ブットー【Zulfikār Alī Bhuttō】

1928‐79
パキスタンの政治家。シンド州の大地主の家に生まれる。1947‐53年アメリカとイギリスで政治学法学を学び,弁護士の資格を取って帰国。アユーブ・ハーン政権の商務相として政界に入った。63年外相,66年アユーブ政権を離れ,67年人民党を結成し,70年制憲議会選挙で躍進した。71年12月の第3次インド・パキスタン戦争後,ヤヒヤー・ハーンに代わって大統領となり,主要産業国有化や土地改革などの政策を打ち出した。

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世界大百科事典内のブットーの言及

【パキスタン】より

…パキスタンは建国以来最も深刻な国家的危機に直面した。 71年12月にヤヒヤー辞任をうけ新大統領となったパキスタン人民党(PPP)のZ.A.ブットーは,〈東〉なきパキスタンの復興に全力をあげた。ブットー路線は,民間企業国有化などの〈社会主義化〉と〈民主主義〉を強調した。…

※「ブットー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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