翻訳|Puerto Rico
アメリカ合衆国の自由連合州(スペイン語でEstado Libre Asociado,英語でCommonwealth)。主都はサン・フアン。カリブ海域北東部に位置する本島とクレブラ,ビエケスなど周辺のいくつかの小島とからなる。西には約80kmの海峡を隔ててハイチとドミニカ共和国のあるイスパニオラ島,東にはアメリカ領バージン諸島がある。本島は東西約180km,南北約60kmのほぼ長方形をなしており,周辺の島を含めた総面積は8959km2で,日本の四国の約半分の広さに相当する。人口は388万7000(2004),人口密度は434人/km2と高い。このほかにアメリカ本土に住むプエルト・リコ出身者が300万人近くにのぼると見られる。
本島は全体に山がちで,中央山地が東西に走り,これに丘陵地帯が続き,海岸に沿って平野部が見られる。気候は熱帯に属するが,北東の貿易風の影響が大きい。本島北側に位置するサン・フアンでは,年平均気温26℃,年降水量は1500mmである。四季の区別はないが,12月から3月ごろにかけて比較的に気温が下がり過ごしやすい。ときにハリケーンに襲われることがあり,これまでにも大きな被害を被ってきた。全体に,貿易風のぶつかる島の北側で雨量が多く,山間部では熱帯雨林が形成されるが,南側では雨量は減り,サバンナ気候となる。住民の大半がスペイン系白人かアフリカ黒人の血をひいているが,他のカリブ海の島々に比べて奴隷制がさほど拡大しなかったため,白人住民の割合が高いのが特徴である。文化的にはスペイン植民地時代からの伝統が色濃く残っているが,アメリカ合衆国の影響を強く受けた大衆消費社会となっている。公用語はスペイン語と英語だが,住民のほとんどがスペイン語を日常的に話している。宗教はカトリック教徒が住民の8割近くを占めるとみられるが,プロテスタント各派の活動も活発である。
かつてこの島は先住民タイノ族によってボリケン,あるいはボリンケンと呼ばれていたが,1493年にコロンブスがこの島に上陸し,サン・フアン・バウティスタ島と命名した。その後1508年にポンセ・デ・レオンJuan Ponce de León(1460?-1521)らによって植民が始められ,現在のサン・フアンに植民地が建設された。〈富める港〉を意味するプエルト・リコという名称は,もとはこの植民地につけられた地名で,それがその後島名と入れ替わったものである。この植民初期にタイノ族先住民人口は,ヨーロッパからもたらされた疫病やスペイン人による過酷な扱いによって急速に減少した。これ以後のこの島の歴史は,(1)もっぱらスペイン帝国のカリブ海域の橋頭堡として機能し,経済開発は顧みられなかった18世紀末まで,(2)キューバを除く他の中南米植民地が独立し,旧植民地や本国からの移民によって経済発展の始まった19世紀,(3)1898年の米西戦争の結果,スペインからアメリカの支配の下に移り今日に至るまで,の3期に区分される。
19世紀以後の経済発展は,まずサトウキビ農園の拡大によって始まったが,その後生産の近代化が進まなかったため,19世紀後半には,山間部の小規模農園によるコーヒー生産がこの島の主産業となった。この間,スペイン本国は植民地支配を強化したため,1868年には独立蜂起もあったが,すぐに鎮圧された。その後は自治権を求める運動が高まり,97年にスペインから自治権が与えられ,翌年,自治政府が成立した。しかしわずか2ヵ月後に米西戦争が勃発し,アメリカ軍の占領をうけ,自治政府は崩壊した。98年のパリ講和条約によってアメリカ領となった後は,1900年に民政に移行,17年には住民はアメリカ市民となったが,自治あるいは独立を求める声が高まったため,アメリカ政府は46年に初めてプエルト・リコ人知事を任命し,48年には初の民選知事が誕生した。初代民選知事ムニョス・マリンLuis Muñoz Marin(1898-1980)の下で経済発展が急速に進められ,さらに52年には住民投票により現行の自由連合州憲法が制定され,プエルト・リコの現在の地位が定められた。自由連合州は,知事,上下両院議員を民選し,内政問題に自治権をもつが,主権はアメリカ合衆国にあり,アメリカ合衆国の領土である。アメリカ連邦議会にはオブザーバーとして民選の駐在代表1名を送っている。住民には大統領選挙権はなく連邦税は免除される。プエルト・リコの政治はこの体制をめぐって,現体制を維持しつつ自治権を拡大しようとする勢力と,完全な州制へ移行しようとする勢力とを主軸に展開してきた。67年の住民投票では現体制維持派が優勢だったが,近年,両者の勢力は拮抗している。独立派勢力は少数派にとどまっている。1998年にはアメリカ合衆国の主権下に移って100年を経過することになり,アメリカ連邦議会でプエルト・リコの政治的地位の問題に決着をつけるための住民投票実施法案の審議が行われているが,最終的な解決には今しばらく時間がかかるものと見られる。
1898年にアメリカ領になった後,プエルト・リコの通貨はアメリカ・ドルであり,関税など,経済のすべての面でアメリカ合衆国のシステムの中にある。このためそれまでヨーロッパを主たる市場としていたコーヒー生産は20世紀に入って急速に衰退し,代わってアメリカ合衆国を大きな市場とする砂糖の生産がアメリカ資本によって再び拡大することになった。しかし住民の生活は依然として苦しく,また世界恐慌の影響や,甜菜糖および他の砂糖生産地との競争の中でプエルト・リコの砂糖生産は40年代には衰退を見せ始めた。一方,アメリカ政府はニューディール政策をプエルト・リコにも適用し,40年代以降は,初代民選知事ムニョス・マリンの下でアメリカ企業の誘致を主軸に,まず繊維・食料品工業,次いで電機・化学工業を中心に強力な工業化が進められた。この政策は一定の成功を収め,1人当たり国民総生産は大幅に伸び,95年推計で7800ドルとラテン・アメリカ,カリブ地域でも高い水準に達し,また以前は50歳に満たなかった平均寿命も今では75歳を超えるなど,かつての農業中心の貧しい島は,近代的な工業の島に変貌した。しかし,急速な工業化の陰で農業開発が置去りになり,70年代以降は薬品工業や先端エレクトロニクス工業など資本集約型の工業化が進められたため,増加する労働力を吸収しきれず,高い失業率が続き,連邦政府による援助に頼らざるをえない住民が人口の半数以上を占めるといった矛盾も顕在化してきた。現在のプエルト・リコの経済は,製造業,金融サービス業,観光業,そして連邦政府支出によって支えられており,アメリカ合衆国に大きく依存している。
執筆者:志柿 光浩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
カリブ海,大アンティル諸島東方に位置するアメリカ合衆国の準州。ポンセ・デ・レオンが1508年に探検,翌年総督となる。スペイン時代にアラワク系住民は絶滅し,黒人奴隷が導入された。しばしばイギリス,フランス,オランダの海賊の攻撃を受けた。アメリカ‐スペイン戦争の結果アメリカ領となり,1917年住民に市民権が与えられた。初め知事はアメリカ大統領が指名したが,48年以後は公選,52年憲法が定められて自由連合州(Estado Libre Asociado)となり,完全な自治が認められた。ただし,通貨,外交,国防に関してはアメリカ政府に従い,投票権のない代表をアメリカ議会に送ることを許された。独立派は少数である。かつては農業依存だったが,現在では工業化が進んでいる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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