プーチン(読み)ぷーちん(その他表記)Владимир Владимирович Путин/Vladimir Vladimirovich Putin

デジタル大辞泉 「プーチン」の意味・読み・例文・類語

プーチン(Vladimir Vladimirovich Putin)

[1952~ ]ロシアの政治家。1975年にレニングラード国立大学法学部を卒業し、ソ連邦国家保安委員会KGB)に勤務。レニングラード国立大学学長補佐官を経て、1991年のソ連崩壊後、サンクトペテルブルグ市副市長、ロシア連邦保安長官などを経て、1999年に首相に就任。エリツィン大統領代行に指名され、翌年の大統領選挙に当選、第2代ロシア連邦大統領に就任。2008年、メドベージェフを後継者に指名し大統領に当選させ、みずからは首相となる。2012年に第4代大統領に再任。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プーチン」の意味・わかりやすい解説

プーチン
ぷーちん
Владимир Владимирович Путин/Vladimir Vladimirovich Putin
(1952― )

ロシアの政治家。ロシア連邦大統領(在任2000~2008、2012~ )。レニングラード市(現、サンクト・ペテルブルグ市)生まれ。レニングラード大学(現、サンクト・ペテルブルグ大学)法学部卒業(1975)。経済学博士候補(1997)。ドイツ語に堪能(たんのう)。サンボのスポーツ・マスター(1973)、柔道のスポーツ・マスター(1975)の称号を授与されている。1983年にリュドミラ・アレクサンドロブナ・シュクレブネワLyudmila Aleksandrovna Shkrebneva(1958― )と結婚(2013年に離婚)し、長女マリヤMaria Vorontsova(1985― )、次女カテリーナKaterina Tikhonova(1986― )の2子をもうけた。

 1975年、ソ連国家保安委員会(KGB)に入り、1985~1990年に東ドイツ・ドレスデンで諜報(ちょうほう)活動に従事。1990年に帰国し、KGB在籍のまま、レニングラード大学学長補佐(国際問題担当)、レニングラード市議会議長顧問を歴任後、1991年6月、サンクト・ペテルブルグ市対外関係委員会議長(外資導入・合弁企業問題担当)に就任。同年8月、KGBを退職。1994年からサンクト・ペテルブルグ市政府第一副議長(副市長)・対外関係委員会議長を兼務。1996年8月、大統領エリツィンのもとで、大統領府総務部次長(法務・在外資産担当)、1997年3月大統領府副長官兼監督総局長、1998年5月大統領府第一副長官(地域対策担当)、同年7月連邦保安庁長官、1999年3月安全保障会議事務局長(連邦保安庁長官と兼務)を歴任。同年8月、政府議長(首相)に就任。同時期にモスクワ市内ほかで連続爆破テロ事件が発生すると、断固たる姿勢で対テロ闘争を指揮し、国民の高い支持を得た。同年12月、エリツィンが任期満了前に大統領を辞任したため、憲法の規定により大統領代行に就任し、2000年3月、大統領選挙に当選(就任は5月。以下同様)。2004年3月、再選(2期目)。2008年5月、大統領退任後、首相に就任。2012年3月に大統領に再選(3期目)、その後2018年3月(4期目。2008年憲法改正により任期を4年から6年に延長)、2024年3月に再選(5期目)。大統領在任通算20年を超す長期政権となっている。

 プーチン政権は、2期目まで(2000~2008)に、経済の混乱、治安の悪化、中央政府の弱体化、不安定な政局といった前任のエリツィン政権期の諸問題を克服し、年率平均7%という高度経済成長を達成し、2008年以降も、経済の安定成長と国内政治の安定を維持してきた。これがプーチンに対する60~90%という高い支持率の理由である。他方、北大西洋条約機構NATO(ナトー))の東方拡大を背景に、2003~2004年に旧ソ連諸国のジョージアグルジア)で起きた「バラ革命」やウクライナで起きた「オレンジ革命」で親欧米・反ロシア政権が相次いで成立したことを、プーチン政権は欧米の内政干渉によるものと考え、ロシア国内で同様のことが起きないよう、2005年以降、外国からの支援を受ける人権団体、政府に批判的な独立系メディア、反体制的党派に対する規制を強化し始めた。

 こうした状況下で、2008年8月、ジョージア政府軍が分離独立を主張する南オセチア地域を攻撃、これに対し南オセチアを支援するロシア軍が介入した(ロシア・ジョージア紛争。同年8月中に停戦)。さらに2014年2月、ウクライナでは、ロシア系住民が過半数を占める東部ドネツク州出身の大統領ヤヌコビッチViktor Yanukovych(1950― )に反発する親欧米派・ウクライナ民族主義者を中心とする反政府暴動が激化し、ヤヌコビッチ政権が崩壊すると(マイダン革命)、東部ドネツク州・ルハンシク州では分離独立派が台頭、政権側との武力衝突に発展した(ウクライナ紛争)。他方、ロシア系住民が大多数を占めるウクライナのクリミア自治共和国はロシアに併合された。この結果、ウクライナとロシアの対立は決定的なものとなり、2022年2月、プーチンは、ウクライナ東部のロシア系住民をウクライナ軍の攻撃から守ることと、ウクライナのNATO加盟阻止を目的として、本格的軍事侵攻を開始した(ロシアのウクライナ侵攻)。2024年3月に通算5期目の大統領再選を果たしたプーチンにとって、ロシアの経済力と国際的地位を維持しつつ、どのようにしてウクライナとの戦争を終わらせるかが重要な課題となっている。

[上野俊彦 2025年4月15日]

『N・ゲヴォルクヤン、N・チマコワ、A・コレスニコフ著、高橋則明訳『プーチン、自らを語る』(2000・扶桑社)』『横手慎二編著『ロシアの政治と外交』(2015・放送大学教育振興会)』『塩川伸明・池田嘉郎編『東大塾 社会人のための現代ロシア講義』(2016・東京大学出版会)』『横手慎二著『現代ロシア政治入門』第2版(2016・慶應義塾大学出版会)』『油本真理・溝口修平編『現代ロシア政治』(2023・法律文化社)』『塩川伸明編、松里公孝・大串敦・浜由樹子・遠藤誠治著『ロシア・ウクライナ戦争――歴史・民族・政治から考える』(2023・東京堂出版)』

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百科事典マイペディア 「プーチン」の意味・わかりやすい解説

プーチン

ロシアの政治家。サンクト・ペテルブルク生れ。レニングラード大学法学部卒業後,1975年―1990年ソ連国家保安委員会(KGB)の対外情報部門に勤務。ソ連崩壊後,サンクト・ペテルブルク副市長をへて1996年から大統領府で活動,1999年には安全保障会議書記。同年首相に指名,秋からチェチェンへの大攻勢を指揮し,同年末エリツィン大統領辞任に伴い大統領代行に就任。2000年3月の大統領選挙で圧勝し第2代大統領となる。〈法の独裁〉による秩序の強化と経済の再生をめざしている。2004年3月の大統領選挙では70%の得票率で圧勝し再選,前年末の議会選挙でのプーチン与党の勝利と合わせ権力基盤を固めた。2005年から連邦構成主体の首長を実質的に大統領による任命制に移行させるなど,中央集権化を強める一方,堅調な経済成長により国民の支持を広げた。2007年12月,大統領3選禁止事項に従い大統領退任を表明,後継者に第一副首相のメドベージェフを指名した。2008年3月の大統領選でメドベージェフが当選し,同年5月大統領に就任すると,プーチンは首相に指名され,与党統一ロシアの党首にも就き,メドベージェフとの双頭体制を敷いた。2012年3月の大統領選では,プーチンが大統領に立候補,得票率63%で当選し,メドベージェフを首相に指名,民主主義国家としては異例の双頭交替制で長期政権を維持している。3度目のプーチン大統領はロシアのナショナルアイデンティティーの保持を強調しつつ内政重視の姿勢を打ち出した。2013年ロシアにとって経済的・軍事的に重大な位置にある隣国ウクライナで深刻な危機が発生,親EU暫定政権が誕生した。こうした動きに,ウクライナのロシア系住民が強く反発,ロシア系住民が大半を占めるクリミアではクリミア自治共和国の独立の動きが一気に浮上し,プーチンもこれを強力に支持。同年3月クリミア自治共和国議会とセバストポリ市議会は独立宣言を採択し,住民投票で圧倒的な賛成を得て,クリミア共和国として独立。プーチンは直ちにクリミアとセバストポリ特別市をロシア領に編入する条約を結び編入を宣言,ロシア軍が事実上クリミア半島に侵攻するかたちとなった。ウクライナはもとより国際連合,EU諸国,米国等はウクライナの国家主権・領土を侵害する違法行為として,独立・編入を承認せず,米国とEU諸国はロシアに対して経済制裁に踏み切った。これに対してプーチンは大ロシア主義的な姿勢を鮮明に打ち出した。ウクライナ東部にはクリミア以外にもロシア系住民が多い地域があり,ロシアが支援するロシア系武装勢力とウクライナ軍が全面的に武力衝突する事態となった。欧米の経済制裁が長引けば,ロシアへの海外投資は激減する可能性があり,ロシア経済に大きな打撃となる。プーチンのこうした姿勢についてロシア国内の世論の支持はきわめて高いが,ウクライナ情勢の展開如何で欧米はさらにロシアを孤立させる制裁を発動する可能性もあり,プーチン強硬外交の行方が試される事態となった。2015年2月,ロシア・ウクライナ・ドイツ・フランスによる停戦合意がとりあえず成立したが,ウクライナ問題の抜本的解決からはほど遠い。一方では,柔道の実力者としても知られ,ヨーロッパ柔道連盟名誉会長を務める。→ウクライナ問題
→関連項目クリミア自治共和国ヤコブレフロシア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プーチン」の意味・わかりやすい解説

プーチン
Putin, Vladimir

[生]1952.10.7. レニングラード
ロシアの政治家。大統領(在任 2000~08,2012~ ),首相(在任 1999,2008~12)。フルネーム Vladimir Vladimirovich Putin。1975年レニングラード大学法学部卒業。少年時代から志望していた国家保安委員会 KGBに入り,対外諜報部門に 15年間勤務し,1990年に中佐で退任した。1990年レニングラード大学国際問題担当官を務めたのちレニングラード市長アナトリー・サプチャークの顧問となり,政治の世界に足を踏み入れた。1996年モスクワに移り,ロシア大統領府総務次長,大統領副長官,連邦保安局長官,安全保障会議常任委員を歴任して頭角を現す。1999年8月に連邦政府議長(首相)に指名され,9月にはロシア軍をチェチェン共和国に派遣して制圧し(→チェチェン紛争),国民の圧倒的支持のもとその地位を強固なものとした。12月31日にはボリス・エリツィン大統領の辞任に伴い大統領代行に任命された。2000年大統領選挙で圧勝して第2代大統領の座についた。「大国ロシア」の再興を訴え,犯罪や汚職の摘発,新興財閥の政治からの排除など政治改革を進めるとともに,2001年9月11日のアメリカ同時テロ後の対応や西側諸国との協調路線は国際的に高く評価された。主要輸出品の原油の価格高騰による好景気を背景に 2004年に再選され,2008年に退任,首相に就任した。2012年3月の大統領選挙に勝利すると,ドミトリー・メドベージェフを後任の首相に指名し,3期目の大統領に就任した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「プーチン」の解説

プーチン
Vladimir Vladimirovich Putin

1952~

ロシアの大統領(在任2000~2008)・首相(1999~2000,2008~)。レニングラード大学法学部卒業後,国家保安委員会(KGB)に就職,東ドイツに勤務。91年レニングラードの改革派ソプチャクの補佐官となり,94年にレニングラード第一副市長。96年から大統領府で働き,連邦保安局長官をへて,99年首相,同年末大統領代行,2000年大統領となり,チェチェン侵攻を果たす。「強いロシア」が目標。

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