ロシアの批評家。ペンザ県チェンバル(現ベリンスキー市)の貧しい田舎(いなか)医師の家に生まれる。1829年に国の奨学生としてモスクワ大学文学部に入学。在学中に書いたシラーばりの戯曲『ドミトリー・カリーニン』の農奴制批判などが災いして、32年大学を追われる。翌33年、批評家であり『テレスコープ』誌・『モルバ』紙の編集者でもあったナデージジンに招かれ、文芸批評の道に踏み出す。デビュー論文「文学的空想」(『モルバ』紙、1834)でロシア文学の過去と現在を概観し、ロシアに真の文学はないと断罪、真の文学の出現を熱烈に訴えた。
[藤家壯一]
1833年のもう一つの重要事はスタンケービチとの出会いで、ベリンスキーはこのスタンケービチ・サークルにおいてボトキン、バクーニンなど終生の友を得ただけでなく、シェリング、フィヒテ、ヘーゲルなどのドイツ哲学を知り、熱中した。とくに37年秋以降はバクーニンを通じてヘーゲル哲学に心酔し、「存在するものはすべて合理的である」との観点から、政治的には現存社会を是認し、美学的には芸術至上主義を提唱した。40年代初頭までのこの時期を「現実との和解」の時期といい、ベリンスキーの危機の時代とされる。この時期には『ハムレット論』(1838)、『ボロジノ会戦記念日』(1839)などが書かれている。
[藤家壯一]
しかし処女戯曲やデビュー論文でみせた農奴制批判や、現実から遊離したロシアの亜流ロマン主義文学批判は彼の奥深くに生き続けており、1839年に『祖国雑記』誌の批評部門を担当すべく招かれてペテルブルグに移り住み、ゲルツェンを通してフォイエルバハの唯物論哲学を知るに至って、この「現実との和解」の危機は克服されていった。そしてこれ以後、彼はロシアの進むべき道、ロシア文学のあるべき姿を求めて精力的に評論活動を展開する。『ロシアの明敏なる改造者ピョートル大帝の事蹟(じせき)』(1841)で、西欧をモデルとするロシアの近代化こそが人間的な社会への道であり、人類の普遍文明に加われる唯一の道であると主張して、いわゆる西欧主義の立場にたち、『批評論』(1842)においては、芸術も時代精神の反映であり、現実に対する批判を失ってはならないと説き、芸術至上主義を捨てた。43~48年に発表した11の論文からなる「プーシキン論」ではロシア文学の歴史的な流れと個々の作家についての鋭く深い考察を行い、ロシア文学がプーシキン時代を経て新しい時代、すなわちゴーゴリ時代、リアリズム文学の時代を迎えたことを強調した。この見地から彼は、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ネクラーソフ、ドストエフスキーなどをいち早く認めて高く評価し、批評眼の確かさを立証している。なお、ゴーゴリが晩年近くにロシアの過去と現状を容認するかのような発言をした(『交友書簡選』1847)ことにベリンスキーはただちに反論し、非人間的な農奴制と専制政治のうえに築かれているロシアの現状を激しく糾弾した(『ゴーゴリへの手紙』1847)。死の年に書かれた『1847年のロシア文学概観』は、歴史的視点から文学をとらえ、現実から遊離しないリアリズム文学を擁護し、真の国民文学を期待するという彼の批評の方法と目的とがもっとも端的に表れているという意味でもベリンスキーの代表論文といえる。
[藤家壯一]
『二葉亭四迷訳『美術の本義』『米氏文辞の類別』(『二葉亭四迷全集 第五巻』所収・1965・岩波書店)』▽『除村吉太郎訳『ロシア文学評論集』全二冊(岩波文庫)』▽『金子幸彦訳『批評論』、和久利誓一訳『ゴーゴリへの手紙』(『世界大思想全集27』所収・1954・河出書房)』
19世紀ロシア最大の文芸評論家。医師の家庭に生まれ,モスクワ大学に在学中,農奴制を批判する戯曲を書いて放校されたが,処女評論《文学的空想》(1834)によって論壇に出た。スタンケービチのサークルでヘーゲル哲学を学び,一時期保守的な思想を抱き,現体制を擁護する論文を書いたこともあったが,ゲルツェンとの交遊を通じて,1840年の末には農奴制と専制と教会の批判者となった。以後は《祖国雑記》や《現代人》誌を中心に文壇を指導し,〈自然派〉と呼ばれる革新的文学グループを形成,ツルゲーネフやドストエフスキー等多くの作家を世に送りだした。厳しい検閲下のロシアにおいては,文学が思想を表現する唯一の場であったことから,彼は〈純粋芸術〉としての文学を拒否し,作家に高い社会的自覚を求めた。こうした立場から彼は,神秘主義に陥った晩年のゴーゴリが《死せる魂》や《検察官》等自作の文学的価値を否定しようとした時,《ゴーゴリへの手紙》を書き(1847),ゴーゴリの変節を非難し,社会変革の担い手としての作家の役割をあらためて説いた。文学に社会性を要求する彼の批評原理はチェルヌイシェフスキーやドブロリューボフに継承され,ロシアの文芸批評の伝統となり,ソ連邦の文芸学の基礎となった。40年代に書かれた年次ごとの文学概評や《プーシキン論》(1846)等で展開された作品論,作家論は,今なお大きな意義を持っている。晩年に療養を兼ねて西欧を歴訪,ブルジョア社会の害毒を目のあたりにしながらも,同時に,生産力の向上がもたらす意義をも認め,ロシアの資本主義的発展を不可避と考え,貴族階級のブルジョア化を予測,民主主義革命をロシアの当面の政治的課題とした。48年5月,肺患のために彼が死んだ時,西欧の革命がロシアに波及することを恐れたツァーリ政府は,ひそかに彼の逮捕を計画していたという。
執筆者:長縄 光男
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1811~48
ロシアの文芸評論家。モスクワ大学を追放されたあと,雑誌『祖国の記録』や『同時代人』に急進的な文芸批評を執筆して,1840年代のロシア思想界に大きな影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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[文学批評]
ロシア近代文学の他のジャンルがすべてそうであるように,ロシア文学批評もヨーロッパ批評史の欠くことのできない一部である。ロシア批評の父ともいうべきベリンスキーの生きていた時代は,ニコライ1世治下の社会的無感覚の体制下に生きていた青年が西欧からもたらされる思想を不条理なまでの熱意でくみとり,それを実行に移そうとし,またそれを極端な結論にまで発展させようと身構えていた時代である。消化吸収された最初のイデオロギーはドイツ・ロマン主義のイデアリズム(理想主義,観念論)であった。…
※「ベリンスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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