ベルギーの言語戦争(読み)ベルギーのげんごせんそう

大学事典「ベルギーの言語戦争」の解説

ベルギーの言語戦争
ベルギーのげんごせんそう

ベルギーは人口1132万人(2017年1月現在)を有する立憲君主制の連邦制国家で,オランダ語,フランス語,ドイツ語を公用語とし,おもにゲルマン系のフランデレン人と,ラテン系のワロン人によって構成される多言語・多民族国家である。オランダ語は北部ベルギー(フランデレン地域)で,フランス語は南部ベルギー(ワロン地域)で話されている。なお,首都のブリュッセルは二つの言語の併用地とされる。各言語の人口比はオランダ語が約60%,フランス語が約39%,ドイツ語が約1%である。オランダ語を母語とするフランデレン人は1830年の建国以来,常に多数派を占めてきた。しかし19世紀を通じて,ベルギーにおけるオランダ語はフランス語に対して劣位に置かれる状況が続いてきた。このことが,現在まで延々と続くベルギーの言語戦争(言語紛争(ベルギー))発端となった。

[ベルギーにおける言語戦争の歴史]

ベルギーの歴史は言語戦争の歴史ともいえる。ベルギー王国の建国は,1830年10月のネーデルラント連合王国からの独立を契機としたものである。独立のおもな要因として,現在のオランダ地域の人々による現在のベルギー地域の人々への政治的・経済的抑圧やカトリック教徒への宗教的圧力などに加えて,オランダ語の強制が挙げられる。これらの圧政に対する反抗が,フランス語を話すブルジョワジーを中心とした独立運動に繫がった。フランス語の話者がベルギーの独立を主導したことから,建国時に制定された憲法では,フランス語とフランデレン語(オランダ語の方言)の平等が保証されたものの,実際には教育も含め公的な場ではフランス語のみが用いられることとなった。よって,当時のフランデレン語は,フランデレン地域の家庭や仲間内で使われる話し言葉でしかなかった。この言語的格差がのちのフランデレン運動を推進する原動力になっていくのである。

 ベルギー建国間もない頃のフランデレン運動(ベルギー)は,フランデレンの言語と文化の地位向上を目的とした社会・民族運動であった。しかしながら,1865年にフランス語を理解できないフランデレン人の被告に対して,フランス語による裁判で死刑が宣告され,死刑執行後に無罪が判明するという冤罪事件が起こると,フランデレン運動は過激な政治運動へと変化していくことになる。それは公的な場におけるフランデレン語の使用を認める「二言語主義(ベルギー)」の展開を意味した。その結果,法廷行政,教育におけるフランデレン語の使用を認める法案順次可決されていった。そして1898年に,すべての法律と勅令が二つの言語で記載される「平等法(ベルギー)」が成立し,ベルギー全土における二言語主義が確立した。ただし,これでフランデレン運動が終結したわけではなかった。運動の目的が「二言語主義」から,「地域別一言語主義(ベルギー)」へと変遷していったからである。

 地域別一言語主義とは,その地域の言葉を日常語とする「地域言語(ベルギー)」の概念に基づいて,フランデレン地域はフランデレン語のみを使用するという考え方である(なお当時のフランデレン語は地方ごとに異なる方言を用いていたため,オランダの標準語をモデルに統一化が進められていた。このため,以下の記述はフランデレン語をオランダ語と表記する)。この地域別一言語主義の考え方は,1932年にベルギーの国土を南北に分断するように言語境界線が引かれたことで実現された。こうしてフランデレン地域ではオランダ語,ワロン地域ではフランス語のみの使用が,1932年に行政および初等・中等教育で,1935年に法廷で,1938年に軍隊でそれぞれ義務づけられることになった。最終的に1963年の言語法(ベルギー)によって,地域別一言語主義は明文化されることになった。この法律は高等教育にも適用されたのである。

[言語戦争の大学への影響]

現在のベルギーに立地する大学は,ベルギーが建国される以前は一般的にラテン語を教育言語(ベルギー)としていたが,ベルギー建国時にラテン語からフランス語に置き換えられた。この置換はオランダ語圏のフランデレン地域の大学でも実施された。とはいえフランデレン運動が活発化してくると,フランデレンの言語や文化を大学で教えることが強く望まれるようになった。この要望に最も早く応えた大学は,フランデレン地域のヘント大学(ベルギー)(Universiteit Gent[蘭],ゲント大学(ベルギー)とも)である。同大学は1817年に初代オランダ国王のウィレム1世によって設立され,ベルギー独立後はフランス語に教育言語を改めていたが,1852年にフランデレン文学の講座を最初に開設した大学として知られている。そしてフランス語とフランデレン語のバイリンガル大学へと早々に変容し,1930年にはベルギーで最初のオランダ語のみを教育言語とする大学となった。

 ヘント大学以外のフランデレン地域の大学は,1963年の言語法施行以後にオランダ語への移行を開始した。この移行は大学の分割という悲劇も引き起こしている。たとえば,ベルギー最古の大学であるルーヴァン・カトリック大学(ベルギー)(Katholieke Universiteit Leuven[蘭])はフランデレン(フランドル)地域にあるフランス語とオランダ語のバイリンガル大学であったが,言語法によってオランダ語のみの指導を要求されたため,ワロン地域(フランス語圏)に新たな学園都市としてルーヴァン・ラ・ヌーヴ(ベルギー)を建設し,1968年に新たに同名のルーヴァン・カトリック大学(Université Catholique de Louvain(ベルギー)[仏])を開設することで,フランス語の教育・研究活動を継続させることになった。
著者: 田中正弘

参考文献: 小川秀樹編著『ベルギーを知るための52章』明石書店,2009.

参考文献: 正躰朝香「ベルギーの連邦化改革をめぐる国内政治過程―言語問題の政治化と国家再編への」『四天王寺国際仏教大学紀要』42号,2006.

参考文献: 和田文雄「ベルギーの言語紛争について―持続可能な社会の形成過程」『広島経済大学研究論集』35巻4号,2013.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

関連語をあわせて調べる