教育言語(読み)きょういくげんご

大学事典 「教育言語」の解説

教育言語
きょういくげんご

教授言語とも称する。初期キリスト教会で権威をもったのはギリシア語だが,それも4世紀までで,5世紀以降,ギリシア語の権威は東ローマ(ビザンティン)帝国の範囲内に限られる。ラテン語は,キリスト教(ローマ教会)と結びつくことによって,西ローマ帝国の崩壊にもかかわらず,5世紀以降,西欧では言語的権威を独占する。したがって,西欧の高等教育機関では,以降,ラテン語がもっぱら教育言語となった。

 5世紀においてラテン語は形が崩れつつあり,それは「俗ラテン語」と呼ばれるが,これが8~9世紀にはフランス語,イタリア語など「俗語」に発展していくことになる。俗ラテン語の母語話者にとって,教育言語である古典的ラテン語は理解可能だったはずだが,フランス語やイタリア語の場合はそうはいかず,自発的に習得する必要がある。このための教科書として有名なのは,4世紀半ばのローマの文法家ドナートゥス,A.(Aelius Donatus)の『文法術』『Ars Grammatica』であり,15世紀にいたるまで写本や木版刷りで出回った。いったんラテン語を習得すれば,学生は「学術遍歴」(ペレグリナティオ・アカデミカ)と呼ばれる国から国へと旅をしながらの教育の享受が可能となり,教師もまた「どこでも教える権利」(ユース・ウービクエ・ドケンディius ubique docendi)が全うできたのである。

 15世紀から16世紀にかけてのルネサンス期では,イタリアやフランスの大学における教皇の権威は高く,ラテン語使用が揺らぐことはなかった。とはいえ,イスパニア(スペイン)では,エリオ・アントニオ・デ・ネブリーハ,E.A.de(Elio Antonio de Nebrija, 1441-1522)による,1481年の『ラテン語入門』『Introductiones latinae』(ラテン語による)が,1486年にカスティーリャ(イスパニア)語に訳されているので,同地の学校でイスパニア語が教育言語として用いられた可能性があるが,大学で用いられた事例は知られていない。さらに重要なのは,ラテン語の権威を揺るがすことになった宗教改革である。ルタースコラ学など旧来神学を否定し,それに伴い俗語(母語)の使用を提唱した。彼の手になるドイツ語訳聖書は1522~34年に出版され,ドイツ語綴字法の基礎を提供することになった。

 だが,そうした動きが直ちに大学での母語使用につながりはしなかった。16世紀後半から17世紀にかけて,講義自著執筆にドイツ語やフランス語を用いようとする学者が単発的に登場しはするが,しかし欧州の大学でラテン語が教育言語として使用されなくなるのは18世紀半ば以降である。

 16世紀後半からは,欧州列強の植民地にも,宣教師たちによって高等教育機関が設立される。メキシコペルーに建てられたコレジオで教育言語として用いられたのはラテン語だったが,1551年創立の王立リマ大学(Real y Pontificia Universidad de Lima),1553年創立のメキシコ王立大学(Real y Pontificia Universidad de México)では,創立時からイスパニア語が用いられ,さらに先住民言語の講座も開設されていた。こうした例外的事例は,既述のネブリーハのイスパニア(スペイン)語訳『ラテン語入門』(1486年)が,初期宣教師たちの手によって新大陸に渡り,メキシコやペルーで用いられたため生じたとされる。一般的にいえば,ラテンアメリカにおける教育言語としてのラテン語の消滅は,カルロス3世(在位1759-88年)による植民地からのイエズス会の追放(1767年)以降起こったのである。

 ハーヴァード・カレッジ(ハーヴァード大学(アメリカ)の前身)初代学長ヘンリー・ダンスター,H.(Henry Dunster,1609-59)の伝記によると,彼の定めた「規則と指針」では「大学の敷地内ではラテン語を用いる」とある。聖書の英語からギリシア語への翻訳も課されたようなので,英語がまったく用いられなかったわけではないが,教育言語は基本的にはラテン語であった。これは当時,ハーヴァード大学のモデルとなったイギリスのケンブリッジ大学を踏襲したものであった。ちなみにダンスターは先住民の教育にも熱心で,1655年に先住民のためのカレッジを設立している。先住民教育では母語使用の重要性も強調した。

 18世紀以降,世界各地での植民地で植民者の母語使用が一般化し,それが学校教育にも反映されるようになる。19世紀の国民諸国家では,ラテン語に代わって国語の使用が一般化する。それとともに植民地での宗主国の言語の地位も固まっていくのである。

 近代外国語教育における「直接法(近代外国語教育)direct method」には,フランス人のフランソワ・グアン,F.(François Gouin,1831-96)による1880年出版の『諸言語を教え学ぶ方法』,アメリカでのマクシミリアン・ベルリッツ(Maximilian Berlitz,1852-1921)による1880年の方式確立,ドイツのヴィルヘルム・フィーエトル,W.(Wilhelm Viëtor,1850-1918)による1882年発行の論文にはじまる。グアンの方式は「連続法(近代外国語教育)series method」ともいわれ,20世紀初頭,台湾での日本語教育でも用いられた。
著者: 原 聖

参考文献: Nicholas Ostler, Ad Infinitum. A Biography of Latin and the World it Created, London, Harper Press, 2007.

参考文献: Agnès Blanc, La langue du roi est le français. Essai sur la construction juridique d'un principe d'unité de langue de l'État royal(842-1789), Paris, L'Harmattan, 2010.

参考文献: The Catholic Encyclopedia, New York, Robert Appleton, 1910.

参考文献: ピーター・バーク著,原聖訳『近世ヨーロッパの言語と社会』岩波書店,2009.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報