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ベートマン・ホルウェーク ベートマン・ホルウェーク Bethmann Hollweg, Moritz August von

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ベートマン・ホルウェーク
ベートマン・ホルウェーク
Bethmann Hollweg, Moritz August von

[生]1795.4.8. フランクフルトアムマイン
[没]1877.7.14. アンデルナハ近郊ライネック城
ドイツの法律家,政治家。ゲッティンゲンベルリンで法学を学び,とりわけ F.サビニー歴史法学に影響を受け,1820年ベルリン大学教授,29年ボン大学教授。ライン地方の大土地所有者として,49年以来プロシア議会の保守派に属したが,『十字新聞』に代表される反動勢力には反対,58~62年のいわゆる「新時代」には文化相をつとめた。

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ベートマン・ホルウェーク
ベートマン・ホルウェーク
Bethmann Hollweg, Theobald von

[生]1856.11.29. ホーエンフィノー
[没]1921.1.1. ホーエンフィノー
ドイツの政治家。 M.ベートマン・ホルウェークの孫。 1886年内務省に入り,1907年内相,09年7月 B.ビューローの跡を継いでドイツ帝国宰相。ウィルヘルム2世世界政策に反対し,イギリスとの関係改善に努力して緊張の緩和をはかったが,A.ティルピッツによる海軍拡張を押えきれず失敗。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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百科事典マイペディアの解説

ベートマン・ホルウェーク

ドイツ帝国の政治家。1909年首相となり,内政改革や英・露両国との和解の必要を認めながら不徹底に終わり,内外の対立激化を招いた。第1次大戦開戦後は軍部の国内支配に抵抗,内政改革と早期和平の実現を図ったが1917年失脚。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ベートマン・ホルウェーク
べーとまんほるうぇーく
Theobald von Bethmann Hollweg
(1856―1921)

ドイツの政治家。プロイセン官界で昇進、内相を経て、1907年、第二帝国内相、首相代理を務め、1909年、ビューローの後を継いで第5代の帝国首相に就任した。ドイツの国際的孤立と国内の左右政治勢力の対立激化のなかで、有能な行政家ではあったが、政治指導力に欠けたため、イギリスとの和解やプロイセン選挙法改革に失敗。1914年の7月危機では、オーストリア側に強硬姿勢を説いて、第一次世界大戦の一因をつくった。大戦前半期、諸政治勢力の均衡を図る「対角線政策」をとったが、戦争が長期化するにつれ軍部の圧力に押され、また選挙法改正による国内の政治統合にも成功せず、1917年7月、軍部・議会の攻撃を受け、失脚した。大戦勃発(ぼっぱつ)直後に彼の作成した戦争目的・構想(九月綱領)は、ドイツの侵略的意図を示すものとして、1960年代の大戦原因論をめぐる国際的な歴史学界の論争の中心的史料の一つとなったことで知られる。[木村靖二]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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