19世紀初頭にドイツのF.K.vonサビニーによって樹立され,その後1世紀の間ドイツ法学をほぼ支配した学派の研究およびその理論を指すが,ときにこの学派の影響下に成立したイギリスのメーンやP.G.ビノグラドフ,あるいはフランス・ベルギーのバルンケーニヒL.A.Warnkönig等の学説を含めることもある。
宗教的世界観の呪縛(じゆばく)からの人間精神の解放を前提とし,近代科学の成果に立脚しているという点で,歴史法学は近代自然法論と共通の基礎を有していた。例えば,〈歴史法学の祖〉といわれるサビニーはその学問的出発点をカントの批判哲学に置き,イデアリスムスにおける〈学としての哲学〉の確立に呼応して〈学としての法学〉の確立を指向した。その場合,法現象というものが優れて歴史的社会的なものであるがゆえに,これを対象とする研究も必然的に歴史的社会的方向を取らざるをえなかったのである。〈法典論争〉をきっかけとして書き下ろされた《立法および法学に対する現代の使命》ならびに学派の名称がそこから由来することになった《歴史法学雑誌》第1巻の〈この雑誌の目的について〉なる論文(いわゆる〈綱領論文〉)でこの点を見てみると,前者においては,法は言語と同様に〈民族共同の確信(民族精神)〉の発露であり,その発展は民族の歴史的発展と並行するといった基本的見解が見られ,後者においては,歴史は単なる事例集ではなく,我々自身の状況の真の認識に到達するための唯一の途であり,〈法の素材は国民の全過去によって与えられており,……国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される〉といった主張が見られる。M.ウェーバーとならぶ法の歴史社会学の確立者であるE.エールリヒにならっていえば,この歴史法学の〈民族精神〉を〈社会〉と読み替え,その〈歴史的見解〉を額面どおり受け取れば,そこには〈真の法学〉たる法の歴史社会学の端緒が存在しているといえるほどなのである。
だがそうした高い可能性を秘めつつも,歴史法学はその〈綱領〉を完全には実現しえなかった。法発展の高次の段階では,当初共同して法形成に参与していた民族を代表して法曹がこの発展を担うとすることによって,いうところの〈民族精神〉論を法曹法擁護の主張へと転化させてしまい,また〈法の学問的理解〉を〈最初にそれを語った人々の間で法規がいかなる意味を有していたか〉を文献的に明らかにすることだとすることによって,その〈歴史的方法〉を〈醇化主義〉に基づく〈語源学的法源研究〉へと変質させてしまったことは,今日ではむしろ一般に承認されているところである。というのも,一方で〈法学の革新〉を標榜(ひようぼう)しながらも,他方で歴史法学は政治的に分裂し,多くの法領域に分断されていたドイツの歴史的・社会的状況の下で,当面望みがたい統一的権力の確立をまつことなく,時代の要請にこたえて,資本主義的再生産様式にとり不可欠の前提である予測,計算可能性を確保するために,近代自然法論の遺産たる〈体系学Systematik〉を受け継いで,〈概念で計算しうるような〉統一的市民法体系とその法の適用理論を学問を通じて創出しようとしていたからなのである。もちろん,そうした実践的課題は本来的には〈学としての法学〉の確立という課題とつねに合致しうるものではないのだが,歴史法学においては〈歴史的方法〉によって得られる法の学問的理解は同時に実用法学を提供するものと考えられていたのであり,しかもそれは上述のような変化を遂げることによってのみ可能となったといえよう。かくして〈民族の共同の確信〉の発露たる法は法曹の手になる法規とされ,〈歴史的研究〉はそうした法規を法源資料の中に読み込み,体系化する理論へと転化するに至った。〈二辺と夾角により三角形は与えられる〉が,法も同様のしかたで与えることができるのであり,〈そうした指導的な原理をかぎ出し,そこから出発して,あらゆる法律概念や諸法規,さらにそうした法規の内的連関とある種の類縁性を認識することが,まさしく法学の最も困難な課題なのである〉。このサビニーの言葉と後の〈概念法学〉との間にはほとんど距離がないのである。
それゆえ,歴史法学を評価しようとする場合に,つねに指摘されてきた困難は,一方でそれが今日でもなおその現代的意義を失っていない〈法の歴史社会学的研究〉を主張しながらも,他方で経験的概念をあたかも数学的概念であるかのように操作する〈概念法学的手法〉をも説き,かつ後者のほうが結果的には優越していたということである。しかしこの後者は,パンデクテン法学という形でドイツ民法典を学問的に準備したことにより,すでにその歴史的使命は達成されてしまっているのであり,むしろ今日では,歴史法学本来の,しかもいまだ達成されていない〈真の法学(法の歴史社会学)〉の確立という課題が重要性を帯び,その評価にも影響を及ぼすようになってきているのである。
→概念法学
執筆者:河上 倫逸
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法の歴史的性格を重視し、これを民族の文化総体との連関でとらえようとする方法論的立場、あるいはこの方法による実証的研究をいう。19世紀初頭のドイツに興り、イギリスやフランスの法理論にも少なからぬ影響を与えた。その同調者は歴史法学派とよばれる。
ドイツの歴史法学は、法源の歴史的な探究を提唱したフーゴーを先駆者とするが、これに方法的基礎づけを行ったのはサビニーである。民法典編纂(へんさん)論に反対して書かれた『立法および法学に対する現代の使命』(1814)においてサビニーは、法は言語と等しく民族の共同の確信(民族精神)によって有機的に生成するとの観点から、啓蒙(けいもう)主義的自然法論による立法作業を批判するとともに、慣習法研究の必要と歴史主義的法学の構築を訴えた。この法典論争を契機にサビニーは『歴史法学雑誌』を創刊して学派を形成したが、彼自身のその後の研究は民族法たるゲルマン法ではなく、もっぱらローマ法を対象とした。ローマ法を純粋化して法的概念を抽出する試みは、近代私法学の体系を準備したとはいえ、イェーリングらによりむしろその非歴史性が指摘されている。
歴史法学の当初のロマン主義的な綱領に忠実であったのは、サビニーの弟子J・グリムである。彼は『歴史法学雑誌』に「法の内なるポエジー」と題する論文を寄せて、古ゲルマンの慣習法にみられる法的言語の象徴的性格に着目した。いわゆるグリム童話や『ドイツ語辞典』における民俗学的なハレ言語学的業績は、グリムにとって慣習法研究と一体のものと考えられていた。
イギリスの歴史法学としては、メーンの『古代法』(1861)に展開された法発展論や、ビノグラドフによる歴史的法理念型の理論がある。ともに分析法学の思弁性を批判して法と社会のかかわりを追究した点に意義がある。フランスでは、歴史学者のミシュレやフェステル・ド・クーランジュに、歴史法学的傾向が認められる。
[堅田 剛]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ドイツにおいては,そうした法律学はいくつかの〈自然法法典〉,たとえばプロイセン一般ラント法を生みだすにいたった。しかし,啓蒙絶対主義のもとでの立法(〈相対的自然法〉)に対する批判は,それまでのドイツ法の発展を担ってきた大学法学部の専門法律家のあいだには根強いものがあり,フランス革命の招来した恐怖政治などに如実に示された無批判的理性法論の哲学的破算とともに,そうした批判は,19世紀前半の歴史法学という形態をとって出現したのである。 歴史法学は,近代自然法論(理性法論)による法の恣意的定立を強く批判し,法形成の淵源を〈民族の精神〉に求め,法の伝統的有機的発展を説いたことで知られているが,その表面的な言表はともあれ,その実質において方法的には自然法論の体系学を,内容的には普通法論の現代的慣用を継承しつつ,〈現代ローマ法体系〉,すなわち統一ドイツ市民法体系を構想しようとするものであり,資本主義的要求を掲げるドイツの市民階級の法学的世界観に合致するものであった。…
…
[パンデクテン法学]
18世紀末以降,ドイツにおいても私的自治の領域としての市民社会が成立することになる。自然法論による法概念の形成および体系化の作業のあと,この私的自治の法としての私法の体系を完成したのは,サビニーの歴史法学に発するパンデクテン法学である。サビニーは歴史主義的主張によって歴史法学を基礎づけると同時に,ローマ法を手がかりとする体系の構築(立法においては学説による)をもって実定法的秩序の変革を目ざした。…
※「歴史法学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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