ウィルヘルム[2世]
Wilhelm II
生没年:1859-1941
ドイツ皇帝およびプロイセン王。在位1888-1918年。皇帝に即位するや宰相ビスマルクを辞任させ,積極的な海外進出(いわゆる〈世界政策〉)に乗り出す。ロシアとの再保障条約の不更新,穀物関税の引上げ,近東への進出(三B政策)などによってロシアやイギリスとの対立を招き,他方,海相ティルピッツのもと大艦隊の建造に着手し,英独建艦競争を引き起こし,イギリスとの対立を深めた。またモロッコ問題でフランスと衝突した。彼の軽率な言動(クリュガー電報事件やモロッコ事件など)は,ドイツの権威失墜と国際的孤立の誘因となり,宰相,大臣,軍部の不信も招き,とくに《デーリー・テレグラフ》紙事件(1908)による英独関係の悪化以後,その政治的影響力は弱化した。第1次世界大戦の敗北,1918年ドイツ革命の勃発によってオランダに逃れ,帝位を辞す。連合国側は彼を戦争犯罪人に指名したが,オランダ政府が引渡しを拒否し,その後は回想録の執筆などに余生を送った。
執筆者:望田 幸男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ウィルヘルム2世
ウィルヘルムにせい
Wilhelm II; Friedrich Wilhelm Viktor Albert
[生]1859.1.27. ポツダム
[没]1941.6.4. ドールン
ドイツ帝国最後の皇帝 (在位 1888~1918) 。フリードリヒ3世の長子として生れ,1877~79年ボン大学に学び,79年以後陸軍勤務,88年皇帝となった。ただちに宰相 O.フォン・ビスマルクと確執を起し,90年ビスマルク罷免後は親政を行い,「ウィルヘルム時代」を築いた。しかしドイツ植民地の発展,海上帝国建設などの彼の世界政策の遂行は列強を刺激し,1907年の英仏露三国協商による包囲を招き,国際的孤立に陥った。イギリス,ドイツを中心とする二大陣営の対立は,結局,第1次世界大戦の勃発とドイツの敗退を招き,18年の革命の結果オランダに亡命,退位した。以後帝政復活の機をうかがったが成功せず,同地で死去。 (→3B政策 )
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ウィルヘルム2世
Wilhelm Ⅱ
1859 - 1941.6.4
ドイツ国籍。
元・ドイツ皇帝,元・プロイセン王。
フリードリヒ3世の子で父王が没したのち、29歳で即位する。即位後まもなく宰相ビスマルクと対立し、1890年罷免する。積極的な対外膨張政策として世界政策を展開するが、ロシアとの再保障条約の不更新や近東への進出などで他の列強との摩擦を増大させドイツの権威失墜と国際的孤立を招き、第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発により退位してオランダに亡命する。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
ウィルヘルム2世
生年月日:1859年1月27日
ドイツ帝国最後の皇帝
1941年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のウィルヘルム2世の言及
【黄禍論】より
…黄色人種がやがて世界に災禍をもたらすであろう,というヨーロッパで起こった説で,yellow peril(danger,terror),gelbe Gefahr,péril jauneなどの訳語。もっとも早いのはドイツ皇帝ウィルヘルム2世で,彼が画家クナックフスH.Knackfuss(1848‐1915)にいわゆる〈黄禍の図〉を描かせ,それをロシア皇帝ニコライ2世に送ってから,黄禍論はヨーロッパにおいて問題となった。それとともに日本と中国においても,三国干渉の結果として逆に〈白禍〉が叫ばれるようにもなった。…
【三B政策】より
…ドイツ帝国では,統一後まもなくの間は宰相ビスマルクが西欧列強との摩擦をさけたいと考え,トルコでの鉄道経営には積極的でなかった。しかし,1888年に即位した皇帝ウィルヘルム2世は躍進めざましいドイツ資本主義を背景に,近東,とくにトルコでの利権の獲得に熱心で,同年にイスタンブールの対岸のハイダル・パシャからアンカラにいたるまでの鉄道敷設権を獲得した。98年になると,ウィルヘルム2世みずからイスタンブールのスルタンを訪問し,翌99年にコニヤからバグダードを経てバスラにいたる鉄道敷設権を得た。…
【ドイツ帝国】より
…以後,80年代を通じて,ビスマルクはこの保守的な両支配層との同盟を堅持するとともに,労働者を〈アメとムチ〉の政策,すなわち社会政策と弾圧立法によって社会民主党の影響から遠ざけ,国家の味方に引き寄せようと努めた。しかしこのもくろみは結局失敗し,89年ルールに大炭坑ストライキが起こると,これへの対応をめぐりビスマルクは若い皇帝[ウィルヘルム2世](在位1888‐1918)と対立してついに辞職した。 一方,ビスマルクが20年間国内政治で独裁的力をふるうことのできた背景には彼がおさめた外交上の成功があった。…
【プロイセン】より
… これ以後,プロイセン公国は,[ホーエンツォレルン家]のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉[フリードリヒ・ウィルヘルム](在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来[ユンカー](地方貴族)の農奴制的な直営地経営([グーツヘルシャフト])が発展していた。…
※「ウィルヘルム2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」