19世紀前半のドイツ法学界における指導者。フランクフルトの貴族の家に生まれる。ローマ法研究の大家(ロマニスト)で、ドイツ民法学の基礎を築き、国際私法学の樹立にも貢献した。マールブルク大学に学び、1800年母校の講師となり、1808年ランズフート大学教授、1810年ベルリン大学創設と同時に教授に就任。1812年にはフィヒテの後任として約1年半総長を務める。1842年にはプロイセン立法改訂大臣となるが、1848年に退き、以後研究に没頭する。
1803年に、わずか24歳で『占有権論』を著して名声を博す。1814年に、チボーが「ドイツ一般民法典の必要性について」という論文を発表すると、サビニーは「立法および法学に対する現代の任務について」を書き、ここに有名な「民法典論争」が始まった。チボーは、ドイツの近代化を目ざし、フランスの『ナポレオン法典』のような近代自然法の原理にたつ、理性的・合理的基準に基づく民法典の制定を提唱した。これに対し、サビニーは、法は言語と同じく歴史的に発展してきた民族の共同の確信すなわち民族精神の現れであるから、人間が自由に作為できるものではない、という歴史法学派の立場から、民法典の制定は時期尚早であるとしてチボーの提唱を退けた。日本でも明治20年代前半に「民法典論争」が起こったが、穂積八束(ほづみやつか)は「民法出テテ忠孝亡フ」と述べ、近代民法の制定は日本伝統の醇風(じゅんぷう)美俗を損なうとして反対している。サビニー、穂積らの主張は結局のところドイツや日本の近代化を遅らせることになったことは否定できない。
民法典論争が起こった翌1815年、サビニーは歴史法学の立場を確立するために、K・F・アイヒホルンらと『歴史法学雑誌』を創刊し、またこの年から1831年にかけて『中世ローマ法史』全6巻、また1840~1849年にかけて『現代ローマ法体系』全8巻を刊行している。サビニーの歴史法学は政治的には保守的な役割を果たしたが、法を歴史的・社会的に考察する必要を説いた点で、法の科学的研究を進めるうえで一定の貢献をしたものといえよう。
[田中 浩]
ドイツの法学者。フランクフルトの富裕な貴族の家に生まれた。12人の兄弟があったがことごとく夭折し,また12歳で父を,13歳で母を失い,遠縁の帝国裁判所判事ノイラートに引き取られた。後見人の教育方針もあって,早くから法学を学び,16歳でマールブルク大学に入学,1800年に21歳で学位を得,以後,母校の私講師,員外教授を経て,08年ランズフート大学のローマ法担任教授となった。10年にはK.W.vonフンボルトに招かれてベルリン大学〈創立委員〉となり,12年にはフィヒテの後を受けて33歳にしてベルリン大学総長。17年にプロイセン枢密院の法律委員に列せられ,42年には国王の懇請により,ベルリン大学教授の地位を退き,実質上のプロイセン宰相を意味する〈立法改訂相〉に就任した。長い闘病生活の後,61年に彼が死去したとき,国王夫妻臨席の下ベルリン法学協会が葬儀を挙行し,彼を記念した〈サビニー財団〉が設立された。ここから《法史学雑誌》(《サビニー雑誌》の前身)が公刊されるに至った。彼はその生涯にわたってプロイセンの学術・政治の中枢にあり,その影響力は19世紀ドイツの法学界全般に及んだ。ナポレオン没落後のヨーロッパ再編との関連で,ドイツの法体制をいかなるものとするかについての議論(〈法典論争〉)をきっかけに,《歴史法学雑誌Zeitschrift für die geschichtliche Rechtswissenschaft》を創刊し,ドイツの統一市民法体系の創出を担うべき学派とそれにふさわしい〈新しい法学=歴史法学〉を樹立しようとした。今日では彼のそうした努力は,〈学問ないし大学の革新〉を通じたヨーロッパの普通法学の伝統線上での〈新しい学識法〉の形成(《現代ローマ法体系》の構築)と,〈法の歴史社会学〉という近代的経験科学の構想とへ結びつくものだとされており,とくに国家の制定法の枠を超えた法・法学への道を切り開いたものとして高く評価されるに至っている。
執筆者:河上 倫逸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…他方,具体的な適用の結果を知ったうえでそれを比較検討し最終的な準拠法の選定を行いうるため(結果選択的result‐selective),より妥当な解決に至りうるという利点もある。この方法は,ベヒター(1797‐1880)によって批判され,F.K.vonサビニーが後述の方法を提唱するまで,西欧を約6世紀にわたって支配した。今日でも,上記Aのタイプの規定の適用にあたってはなお有効な手段である。…
…
[パンデクテン法学]
18世紀末以降,ドイツにおいても私的自治の領域としての市民社会が成立することになる。自然法論による法概念の形成および体系化の作業のあと,この私的自治の法としての私法の体系を完成したのは,サビニーの歴史法学に発するパンデクテン法学である。サビニーは歴史主義的主張によって歴史法学を基礎づけると同時に,ローマ法を手がかりとする体系の構築(立法においては学説による)をもって実定法的秩序の変革を目ざした。…
…19世紀初頭にドイツのF.K.vonサビニーによって樹立され,その後1世紀の間ドイツ法学をほぼ支配した学派の研究およびその理論を指すが,ときにこの学派の影響下に成立したイギリスのメーンやP.G.ビノグラドフ,あるいはフランス・ベルギーのバルンケーニヒL.A.Warnkönig等の学説を含めることもある。 宗教的世界観の呪縛(じゆばく)からの人間精神の解放を前提とし,近代科学の成果に立脚しているという点で,歴史法学は近代自然法論と共通の基礎を有していた。…
※「サビニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新