ホルバート(英語表記)Ödön von Horváth

改訂新版 世界大百科事典 「ホルバート」の意味・わかりやすい解説

ホルバート
Ödön von Horváth
生没年:1901-38

オーストリア劇作家,小説家。オーストリア・ハンガリー帝国の外交官の子に生まれ,幼年時に言葉をしばしば変えねばならなかった。第1次大戦とその後の混乱期に自己形成を行わなければならなかったこともあり,言語とその背後にある意識に鋭い批判を加えている。自己分解に直面しアイデンティティを喪失した小市民層に彼の時代の典型的な庶民像を見いだし,ホルバートは,19世紀の民衆劇の枠組みを意識的に利用しつつ,彼らの底の浅い偽りの意識構造を暴露する。戯曲には《ウィーンの森の物語》(1931),《フィガロの離婚》(1935),《ドン・フアンの復員》(1936)などがあるが,いずれも一見無害な民衆劇の表層の下に,悲観的とも思われる人間観が潜んでいる。後期の作品ではこれが宗教的な方向性をも帯びてきている。内容空疎なスローガンを多用したナチス政権は,ホルバートの描く対象の権化であり,またこの政権はその作品の出版,上演を許さなかったこともあり,その真価が発見されたのは1960年代になってからである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホルバート」の意味・わかりやすい解説

ホルバート(Ödön von Horváth)
ほるばーと
Ödön von Horváth
(1901―1938)

ハンガリー系オーストリアの劇作家。フィウーメ生まれ。1933年以降ナチスによって執筆を禁じられ、オーストリアからパリ亡命、事故で死んだ。父はオーストリア・ハンガリー帝国の外交官で10回近くも任地を転々。これはホルバートに故郷喪失の根なし草的な、だがその反面では広い国際的視野を備えたコスモポリタンの運命を与えた。加えて第一次世界大戦の体験を基に、彼は激動する1920~30年代のドイツの時代現象を、当時の現実から落ちこぼれた市民層の多数の男女の言動、その意識と意識下のものとの複雑微妙な絡まりを通して巧みな会話体に構成、新しい形の大衆演劇をつくりだした。代表作に『ガーデン・パーティーの夕べ』(1930)、『ウィーンの森の物語』(1931)、小説に『永遠の俗物』(1930)がある。

[棗田光行]


ホルバート(Branko Horvat)
ほるばーと
Branko Horvat
(1928―2003)

旧ユーゴスラビアの経済学者。クロアチア出身。第二次世界大戦中はパルチザン運動に参加し、1955年にザグレブ大学で博士号を取得したのち、58年にイギリスのマンチェスター大学でもPh.D.を取得。その後、ベオグラード大学やオランダのハーグ大学で教壇に立つかたわら、連邦計画庁その他連邦政府の各種委員会の委員を務め、ベオグラード経済研究所および季刊誌『経済分析』を創設した。ザグレブ大学教授も務め、自主管理型社会主義市場経済の代表的論客として国際的に著名。東欧革命とユーゴスラビア連邦崩壊後も、基本的な立場を変えず活躍した。

[佐藤経明]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホルバート」の意味・わかりやすい解説

ホルバート
Horváth, Ödön von

[生]1901.12.9. フューメ
[没]1938.6.1. パリ
オーストリアのハンガリー系の劇作家。ハンガリー,オーストリア,ドイツで青年期を過し,1938年スイスに亡命,パリで事故死。『ウィーンの森の物語』 Geschichten aus dem Wienerwald (1931) など,小市民の日常生活を素材にして意識と無意識の相克をドラマにした。 1930年代には忘れられた存在であったが,60年代になって再評価を受けた。

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