ドイツの美術家。ノルトライン・ウェストファーレン州西部のクレーフェルトに生まれデュッセルドルフで没した。デュッセルドルフ芸術アカデミーで学び、1961~72年、同校教授を務める。62年から国際的な前衛芸術グループであるフルクサスに参加し、67年にドイツ学生党を結成、74年に自由国際大学を設立した。また緑の党にも参加した。ルドルフ・シュタイナーの人智学の影響を受け、直接民主制やエコロジーなどを中心とした社会変革の運動を、芸術作品として提示した。具体的には「アクション」とよばれる行為による芸術、オブジェ作品、そして討論など、従来の美術の枠を超えた多様な形式をとる。これはすなわち、芸術の概念を、理想社会の実現をめざす自由で創造的な活動すべてにまで拡張しようとするものであり、彼はこうした考え方に基づく自らの作品を総称して「社会彫刻」とよんでいる。彼の活動は政治的には十分な成功を収めたとはいえないかもしれないが、芸術を社会と直接に関わる活動とみなす彼の考え方は、その後の現代美術の動向に深い影響を与えた。代表作に『脂肪の椅子』(1964)、『7000本の樫の木』(1982―87)などがある。
[大谷省吾]
『ハイナー・シュタッヘルハウス著、山本和弘訳『評伝 ヨーゼフ・ボイス』(1994・美術出版社)』
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ドイツの美術家。ドイツ西部クレーウェKleve生れ。デュッセルドルフの美術アカデミーに学び,1961-72年同校で教鞭をとる。ドイツ学生党(1967)を組織し,〈自由国際大学〉や〈直接民主主義のための委員会〉にも参加。晩年は〈緑の党〉の活動にも加わっていた。毛布,フェルト,脂肪,鉄,木などを用いた彫刻を制作するとともに,ハプニングでも知られ(1963年に〈フルクサス〉グループに参加),64年《マルセル・デュシャンの沈黙は過大評価されている》を発表。ボイスは,生前のデュシャンが沈黙によって芸術を無化すると同時に絶対化したと考え,それに対して芸術をもういちど人間の活動一般という新たなコンテキストのなかでとらえなおそうとしており,彼の社会的活動もその一環と考えられる(その意味で,彼は人間を〈社会的彫刻〉とみなした)。カリスマ的魅惑をもつ彼はドイツの現代美術に絶大な影響力を有し,中堅以上の作家は多かれ少なかれその影響下にある。しかし,近年では若手作家の間に,〈ボイス神話〉を相対化するようなボイス批判も強く起こりつつある。84年,展覧会を機に初来日し,講演,パフォーマンスを行った。
執筆者:千葉 成夫
イギリス後期バロックの主導的な作曲家。1734年以後ロンドンの教会でオルガン奏者を務め,55年以後王室楽長。晩年は耳疾に悩み,公職を退く。アンセムを中心とする教会音楽と劇音楽の両分野に作品をたくさん書き残しているが,8曲の交響曲をはじめとするいくつかの器楽も注目される。またイギリスの伝統的な教会音楽の楽譜集を編集・出版するなどの重要な仕事をした。
執筆者:大崎 滋生
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… 1960年代の日本のパフォーマンス活動が与えた影響には計り知れないものがあり,その遺産を演劇や映画に活用した芸術家の一人として寺山修司がいる。70年代の日本のパフォーマンス活動そのものは,田中泯(みん)らの〈舞踏〉を除くと,全体として活気に乏しかったが,84年にナムジュン・パイクNam Jun Paik(1932‐ )とヨゼフ・ボイス(いずれも〈フルクサス〉のメンバー),より若い世代のローリー・アンダーソンLaurie Anderson(1947‐ )が来日し,〈パフォーマンス・ブーム〉が再燃しはじめ,ビデオやコンピューターの電子テクノロジーを駆使した新しいパフォーマンスも試みられるようになった。電子テクノロジーによって身体環境が攻囲され,身体的な一回性や偶然性が〈プログラム〉化されかねない状況のなかで,80年代のパフォーマンスが電子テクノロジーを用いながらそうした一回性を再活性化できるかどうかは,まさに今後の課題である。…
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