エコロジーに適合する社会を目ざす、従来の保革(左翼・右翼)対立を超えたドイツ連邦共和国の政党。「緑の人々」とも称される。東西ドイツの統一後、旧東ドイツの市民政治組織である90年連合Bündnis 90との合体により、1993年から正式名称を90年連合・緑の党Bündnis 90/Die Grünenとする。緑の党は、しばしば環境保護のみをテーマとする単一争点の政党と紹介されるが、これは不正確であり、エコロジーの視点からの産業社会のつくりかえ、福祉社会の構築、男女の平等、多文化社会の実現、平和政策など新しい総合的な社会構想や多様な政策を提案している。2002年に採択されたベルリン党綱領「将来は緑」では、「産業社会の持続可能なエコロジー的作り直し」と、教育や知識・情報へのアクセスの機会の平等、性間の公正、世代間の公正を含む「社会的公正概念の拡大」を主張している。さらに、2020年党綱領「尊重することと保護すること――変化が安定を生む」では、世界の平均気温上昇を産業革命前と比べて1.5℃に抑える目標を実現する気候保護、エコロジー的・社会的経済、多様性の観点からの社会的公正の実現を掲げている。
緑の党は、1970年代なかば以後に噴出した次のような新しい社会運動の政治組織として誕生した。それは、環境保護運動、反原子力発電所運動、男女平等のための(フェミニズム)運動、少数者保護(高齢者、定住外国人、ロマ、同性愛者などの差別撤廃)運動、福祉の領域での社会的自助グループ運動、新しい都市文化を実践する運動、第三世界との連帯運動、反核・平和運動などである。最初、1970年代後半に、州レベルで「緑のリスト」「多色のリスト」「オルタナティブ・リスト」とよばれる候補者リストを作成し、州議会で議席を獲得した後、1980年にカールスルーエで連邦レベルの全国組織として緑の党が結成された。そのため、組織は分権的であり、各州支部は多様な特徴をもっている。緑の党が1983年の連邦議会選挙で初の議席を獲得したときの代表的メンバーは、社会運動家ペトラ・ケリーPetra Karin Kelly(1947―1992)、後に社会民主党に入党(1989)し、1998年シュレーダー政権で内務相に就任した弁護士のオットー・シリーOtto Schily(1932― )、シュレーダー政権の副首相兼外相に就任したヨシュカ・フィッシャーJoschka Fischer(1948― )らである。また、緑の党は当初、「われわれは、右でもなく、左でもなく、前方にいる」と表現された。これは党の創設時、一方で1960年代後半の学生や青年による反権威主義的な抗議運動のひとつであった議会外反対派Außenparlamentarische Opposition(APO)のルディ・ドゥチュケRudi Dutschke(1940―1979)らニュー・レフト(新左翼)のメンバー、他方で旧キリスト教民主同盟議員のヘルベルト・グルールHerbert Gruhl(1921―1993)、アウグスト・ハウスライターAugust Haußleiter(1905―1989)ら保守エコロジストなど、多様な政治グループがかかわったことによる。しかし、早期に保守グループは離脱し、グルールはエコロジー民主党Ökologisch-Demokratische Partei(ÖDP)を結成するに至った。1980年綱領では、四つの原則として
(1)「エコロジー的ökologisch」社会を環境適合型にする改革
(2)「社会的sozial」社会的公正の実現
(3)「底辺(草の根)民主主義的basisdemokratisch」公開性と参加型民主主義
(4)「非暴力gewaltfrei」戦争などの政治的手段としての暴力の否定
をあげている。また緑の党は創立時において、分権的な政治スタイル(複数代表制、役職の交代制、党役員と議員の兼職の禁止など)を追求し、議会外活動も重視する「運動政党」あるいは「反政党的政党」とよばれた。厳格な議員の交代制などは、実践を通じて修正ないし廃止されている。
緑の党の成立背景として、高度の産業化と地球的規模での環境汚染の進行、経済成長指向の物質主義的価値観から生活の質や政治参加を重視する脱物質主義的価値観への変化、既存の政党がこれらの変化に十分に対応できないことなどがあげられる。緑の党の出現はドイツの既成政党に影響を与え、1980年代後半には、環境保護は共通の政策課題となった。1983年の選挙で連邦議会に議席を獲得して以来、緑の党は旧西ドイツの政党制に定着した。
ドイツの早急な統一に反対した西ドイツの緑の党は、1990年統一選挙では議席を獲得できず、東ドイツでわずかな議席を得たにとどまった。東西ドイツ統一後、緑の党と90年連合との1993年合同大会では、基本価値として「人権、エコロジー、民主主義、社会的公正、男女の社会的平等、非暴力」が掲げられた。この90年連合・緑の党は1994年の連邦議会選挙では全国で得票率7.3%、49議席を獲得し、復活を果たした。
創立当初から、選挙綱領・政策や連立問題をめぐって原理派と現実派の間で激しい党内論争が続いていた緑の党だが、1990年代に入り、ニーダーザクセン州、ノルトライン・ウェストファーレン州、ヘッセン州などの州レベルで社会民主党(SPD)との連立政権に参加した。この経験を通じて政権担当能力を身につけ、1998年連邦議会選挙後、連邦レベルで初めてシュレーダー連立政権に参加した。シュレーダー政権(1998~2005)は、SPDと緑の党のシンボルカラーから「赤と緑の連立政権」とよばれた。このシュレーダー政権下で緑の党は「持続可能な産業社会」への新しい政策の主導権を握った。脱原発、エコロジー税制改革の実施、国籍法の改定と移民法の制定があり、さらにとくに緑の党が主導権を握って再生可能エネルギーの促進、消費者保護のための政策、同性の結婚を認める「生活パートナーシップ法」が制定された。また、緑の党が提案した反差別法が「一般均等待遇法」として、大連立政権期(2006)に成立している。
2011年の福島第一原発事故の影響を受け、その直後に行われたバーデン・ウュルテンベルク州議会選挙で、緑の党が初の州首相(ウィンフリート・クレチュマンWinfried Kretschmann、1948― )の座を獲得した。またヘッセン州、バーデン・ウュルテンベルク州で、キリスト教民主同盟(CDU、シンボルカラーは黒)との連立州政権を成立させ、連邦レベルでの黒緑連立の扉が開かれた。このとき、緑の党は、赤緑連立、黒緑連立に加えて、SPD、緑の党、自由民主党(FDP、シンボルカラーは黄)からなる信号(赤緑黄)連立、ジャマイカ(黒緑黄)連立を組む可能性があり、政権を成立させる要となる政権創出政党になった。2017年連邦議会選挙後、ジャマイカ連立が目ざされたが、FDPの離脱により成立せず、大連立政権の継続になった。2018年秋から、緑の党は各種の世論調査でSPDを上回り、2019年ヨーロッパ議会選挙で第二党に躍進した。気候保護政策が争点になって気候選挙といわれた2021年の連邦議会選挙で、緑の党は、共同党首のアナレーナ・ベアボックAnnalena Bearbock(1980― )を初の首相候補に立てた。SPDはオラフ・ショルツOlaf Scholz(1958― )首相候補のもとで急浮上し、第一党(25.7%)になり、緑の党はこれまでで最高の14.8%を獲得、その結果SPD、緑の党、FDP三党による連邦レベルで初の信号連立政権が誕生した。三党の連立協定では、脱石炭火力を2030年に前倒し、電力における再生可能エネルギーの割合を2030年までに80%にすることを含む気候保護政策が最重要な課題として取り上げられ、緑の党のロベルト・ハーベックRobert Habeck(1969― )は副首相兼経済・気候保護相に、ベアボックは外務相に就任した。
役職者および議員候補者について女性の50%割当制を実施しており、党役員・連邦議会議員の半数以上が女性である。支持者は、当初に比べ世代効果により年齢が上昇しているが、とくに40代なかば以下の年齢層、高学歴層、ホワイトカラー、公務員、自由業に多い。党員数は2016年の6万1596人から、2020年の12万5737人へと近年、倍増している。
緑の党は、ドイツのみならず、1980年代から1990年代にかけて、ヨーロッパの多くの国々で議席を獲得した。国政レベルでは、イタリアの「オリーブの木」中道左派政権や、フランスのジョスパンLionel Jospin(1937― )社会党主導政権などに参加した。国際的な連合体として「ヨーロッパ緑の連合」があったが、2004年にヨーロッパレベルの政党として新たに「ヨーロッパ緑の党」が設立された。2019年ヨーロッパ議会選挙後、12か国13政党54議員が、他の政治グループとの統一会派「緑の党・ヨーロッパ自由連盟」に属している。
[坪郷 實 2022年4月19日]
『仲井斌著『緑の党』(1986・岩波書店)』▽『坪郷實著『新しい社会運動と緑の党』(1989・九州大学出版会)』▽『S・スプレットナク、F・カプラ著、吉福伸逸・田中三彦・谺田栄作訳『グリーン・ポリティックス』新版(1992・青土社)』▽『坪郷實著『環境政策の政治学――ドイツと日本』(2009・早稲田大学出版部)』
環境保護と反核(反核兵器・反原子力発電)を最大公約数として結集したドイツ(旧,西ドイツ)の政治運動体。〈緑の人々〉とも訳される。ペトラ・ケリーPetra Karin Kelly(1947-92)らを指導者とする〈緑の党〉は,1983年3月の連邦議会選挙で得票率5%を超え,初めて国政レベルに進出した。1977年以来,西ドイツ各地の原子力発電所や核燃料再処理工場建設予定地での反原発闘争を基盤に,地方議会での〈緑〉派の議席獲得が相次ぎ,80年1月には〈緑の党〉の全国組織がカールスルーエで結成された。〈緑の党〉は環境保護グループだけでなく,〈対案実現運動〉を進めた〈市民イニシアティブ〉(市民運動,住民運動)あるいは女性解放運動,同性愛者,老人,外国人労働者,ジプシーなどのマイノリティ(少数民族)や人智学の〈アハベルガー・グループ〉を含む,多様なオールタナティブ運動の集合体である。
〈緑〉派をはじめとする〈市民イニシアティブ〉を支える思想の中核には,〈反成長・非成長〉の理念があるといえよう。これは,1960年代末からの対抗文化(カウンター・カルチャー)の浸透と70年代に広がりをみせた資源・エネルギーの浪費と環境破壊への危機感が契機となってつくりだされたものである。1960年代末から70年代にかけての学生運動(SDS)を担った青年たちも,社会民主党(SPD)に加入して各地域の末端でエコロジー運動を実践していたが,70年代後半にSPDを脱党して〈緑〉派の一翼を形成した。かつてのSDSの指導者であり,〈緑の党〉結成の貢献者の一人であるルディ・ドゥチュケRudi Dutschke(1940-79)の軌跡がそれを象徴している。
〈緑の党〉の党員は1982年当時2万5000人といわれ,支持者は若者,女性に多い。指導層は中産階級出身の知識人である。〈反政党的政党〉と自己規定されるように,直接民主主義をとり,構成グループ間に上下関係が存在しないことに組織上の特徴があり,議員は運動から〈強制委任〉をうけて議会で活動する。また議員と党役員の兼任を認めない,議員は任期4年のうち2年で他の者に交代するローテーション制,歳費は労働者の平均賃金+経費を除いた額を上納させるなど,運動家の職業化を防止するくふうがなされている。
80年3月,ザールブリュッケンの連邦代表者会議で採択された綱領前文に,四つの基本理念がうたわれている。(1)〈エコロジーの考えによるökologisch〉 搾取と収奪の経済,自然を破壊する大量生産に反対し,見通しがよく,自己で決定と処理にあたり,生命を脅かす競争のない社会システムを創造する。(2)〈社会的なsozial〉 経済成長は生活基盤を破壊する。人権といっさいの民主的諸権利を擁護し,弱者の立場に立って差別をなくし,女性を解放する。(3)〈底辺民主主義のbasisdemokratisch〉 集中を排して分権的な直接民主主義を実現する。(4)〈非暴力のgewaltfrei〉 非暴力の原則を貫く。ただし国家の抑圧に対する抵抗権は認める。外敵の侵略には〈社会的自衛〉という不服従戦術が唱えられている。
運動の進展の中で,〈緑の党〉の創立当初の右派(たとえばヘルベルト・グルールら)は離脱し,主流は〈エコロジー+社会主義〉(緑と赤)になってきた。1983年1月の〈意味ある労働と連帯ある生活〉と題する経済政策は,ラディカルな色彩をますます強めている。〈失業は成長ではなく再分配により解決する。生産の指標は利潤ではなく環境アセスメントである。国内航空網,大型プロジェクトの建設,新規の自動車道路,原発,軍需産業はいっさい廃止し,ソフト・エネルギーを開発。外交・内政面ではNATO脱退,国防軍・警察の廃止〉などがうたわれている。また先進産業社会は第三世界の搾取により出発し,支えられているとの認識から,世界貿易の縮小により第三世界の依存性をなくすことも主張されている。
ドイツ統一後の93年,東ドイツの市民運動から発展した〈90年同盟〉Bündnis 90(1990年結成)と統合して,〈90年同盟・緑の党〉と改称した(党員約4万人)。94年の連邦議会選挙では49議席を得て,野党第二党の地位にある。
→エコロジー運動
執筆者:今 防人
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(渡邊啓貴 駐仏日本大使館公使 / 2007年)
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(2012-07-31)
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1970年代,西ドイツの議会政治に登場した新しい政治勢力。底辺からの民主主義を掲げて既成政党を批判する社会運動を源流とし,ドイツ語ではDie Grünen(緑の人々)と表記される。反原発を初めとする環境保護などを目標に掲げ,83年の連邦議会選挙において初めて議席を獲得した。原則派と現実派の対立があり,地域的個性にも富む。国家統一後には旧東ドイツの市民勢力も合流した。98年に成立したシュレーダー政権では連立与党となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… エコロジー運動の原理の一つは,資本主義対社会主義,保守対革新といった在来の対決軸にこだわらず,中央集権的な政治・経済体制に反対し,地域を中心とした分権,政策決定過程への住民参加など,住民の自治と最大限の直接民主主義の実現を求めることにある。この方向で運動の政治化に一定の成果をあげてきた例として,西ドイツにおける〈緑の党Die Grünen〉の運動がある。70年代後半から各地の反原発運動を足場に発展した西ドイツのエコロジー運動は,地方議会選挙に進出して議席を得たが,83年3月の連邦議会選挙で初めて国会での議席獲得に成功した。…
…そして,前者が政治的に弾圧され,後者が無害化されていくなかで,政治勢力としての新左翼は70年代中葉に姿を消した。しかし,その理念はその後も生きつづけ,エコロジー,〈市民社会〉,底辺民主主義などを唱道する今日のドイツの〈緑の党〉などに継承されている。一方,フランスでは1968年,パリを中心に展開された学生,労働者,革新的市民による〈五月革命〉が起こった。…
…おもな政党としては,キリスト教民主同盟(CDU),キリスト教社会同盟(CSU。バイエルン州のみ),ドイツ社会民主党(SPD),自由民主党(FDP),環境政党として出発した緑の党,極右の共和党などで,共和党は連邦議会に議席を有しない。FDPは,右派政党,中道政党としての性格を交互に示している。…
※「緑の党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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