ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーランド農民党」の意味・わかりやすい解説
ポーランド農民党
ポーランドのうみんとう
Polskie Stronnictwo Ludowe
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ポーランドの農民政党。略称PSL。19世紀末から今日まで存続しているが,名称はさまざまに変化している。1895年オーストリア領で創立。当初は議会選挙のための集票組織であったが,1903年以降明確な政綱をもつ政党となり,07年の選挙で進出した。11-13年分裂。ビトスWincenty Witosら穏健派はポーランド農民党ピアスト派(派名はポーランド中世のピアスト王朝に由来)と名のり,独立後全国政党として発展した。18-26年の歴代政府に加わり,3度首班を担当。左派は22-24年一部がピアスト派に,他は1915年にロシア領で成立した解放派に合流した。解放派は第1次大戦中J.ピウスーツキの独立運動を支持し,独立後議会左翼を形成した。農民党諸派は26年のピウスーツキのクーデタ後しだいに大同団結に向かい,31年統一を達成,最大野党となり,弾圧に抗する。第2次大戦中抵抗運動を行い,亡命政府に首相ミコワイチクを送る。戦後は労働者党(共産党)と勢力を競ったが,弾圧を受けて弱体化した。そして47年には共産党の衛星政党に吸収されて統一農民党Zjednoczone Stronnictwo Ludowe(ZSL)となった。89年8月に最初の〈連帯〉政府に参加した。同年11月にポーランド農民党の名を復し,91年10月の国会選挙では8.7%を獲得して第4党となった。93年9月選挙では民主左翼同盟(旧共産党系)に次ぐ第2位を占めて連立与党となったが,97年9月選挙では大幅に後退した。
執筆者:伊東 孝之
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…それまで少数の知識人(その大部分はシュラフタの出身)の集まりにすぎなかった名ばかりの政党であるポーランド社会党が大衆化するのはこのときである。そのために,一方で国民民主党のもとから農民組織が自立していくとともに(のちのポーランド農民党=解放派),他方でポーランド社会党を追われたJ.ピウスーツキのグループが彼らの支持を受けてオーストリア領で軍事訓練を展開することになる。なおロシア領におけるこうした農民運動のあり方に対して,自治を認められていたオーストリア領では議会選挙のために農民党が早くから結成され(1895。…
※「ポーランド農民党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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