日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピウスツキ」の意味・わかりやすい解説
ピウスツキ(Bronisław Piłsudski)
ぴうすつき
Bronisław Piłsudski
(1866―1918)
ポーランドの民族学者。軍人・政治家のJ・ピウスツキの兄。1887年、ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺未遂事件に加わって、サハリン(樺太(からふと))に流刑された。それ以来、島内の先住民族、ニブヒ、ウイルタ、アイヌの習俗や言語に強くひかれた。ことに、1903~1905年にかけては、長期の現地調査を行い、その際、早くもエジソンの蝋管(ろうかん)蓄音機を使って、アイヌの肉声を録音したことは、民族学への先駆的試みとして特筆される。日露戦争勃発(ぼっぱつ)の翌年(1905)に、日本を経て帰国。8か月の滞日中に人類学者の坪井正五郎(つぼいしょうごろう)や鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)をはじめ、社会主義者などとも交際し、ことに作家の二葉亭四迷(ふたばていしめい)と親交を結んだ。業績としては、約50編の論文と1冊の著書『樺太アイヌの言語と民話についての研究資料』(1912)を公表したが、未刊の遺稿が多数残されている。彼の録音蝋管が最新技術で再生され、100年以上前のアイヌの肉声がよみがえったことをきっかけに、再評価が進んだ。
[大塚和義 2018年12月13日]
ピウスツキ(Józef Piłsudski)
ぴうすつき
Józef Piłsudski
(1867―1935)
ポーランドの軍人、政治家。リトアニアのシュラフタ(特権的身分)出身。ハリコフ(ハルキウ)大学在学中にナロードニキ運動に参加し、ロシア皇帝暗殺計画の容疑で1887~1892年にシベリア流刑を経験。1893年ポーランド社会党に入党、独立運動を指導するが、彼の指導する右派は反ロシア的傾向を強め、ロシアの革命勢力との共闘を主張した左派と対立した。日露戦争中に来日し、日本軍との共同軍事行動を提案し、軍事援助を要請したが失敗した。その後、親オーストリア派の立場で次々に軍事組織を設立し、第一次世界大戦中はポーランド軍団を率いて、オーストリア・ドイツ側にたって参戦したが、ロシア革命後、ドイツ皇帝に対する忠誠を拒否したため投獄された。
1918年11月ドイツ革命で釈放されるとワルシャワに帰り、国家元首に就任し、ポーランド分割以前の領土回復を目ざして対ソ連戦争を指導した。しかし、1921年に大統領の権限が弱められた新憲法が成立すると、それに対する不満から政界を引退。その後2回クーデターを計画し、ともに失敗したが、不安定な政治状況と経済危機を背景に国民各層の支持を得て、1926年5月クーデターに成功した。議会は形式的に維持されたが、彼は、サナツィア体制とよばれる実質的な独裁体制を確立し、1930年9月には反対派に大弾圧を加えた。対外政策の面では、反ソ的な外交を推進する一方、フランスとの同盟政策を離れ、ナチス・ドイツと接近した。
[安部一郎]