日本大百科全書(ニッポニカ) 「マクリーン」の意味・わかりやすい解説
マクリーン(Jackie McLean)
まくりーん
Jackie McLean
(1931―2006)
アメリカのジャズ・サックス奏者。ニューヨーク生まれ。生年は従来の資料では1932年だが31年が正しい。父親はギター奏者だったがマクリーンが7歳のとき事故死。母親はジャズ・レコード専門店を営む男と再婚。14歳のとき名づけ親からソプラノ・サックスを譲りうけると、義父は彼にテナー・サックス奏者レスター・ヤング、ベン・ウェブスターなどのレコードを聴かせる。15歳の誕生日に母親からアルト・サックスをプレゼントされる。基本的に独学だったが、ビ・バップの創始者であるアルト・サックス奏者チャーリー・パーカーのアルバムを聴き、大きな衝撃を受ける。高校の上級生に後のテナー・サックス奏者ソニー・ロリンズがおり、彼と行動をともにする。
1947年、ビ・バップ・ピアノの創始者であるバド・パウエルと知り合い、彼を通じて、パーカーをはじめトランペット奏者マイルス・デービス、ピアノ奏者セロニアス・モンクといったジャズ・シーンの重要人物に引き合わせられる。49年マイルスと共同生活を行い、51年マイルスのアルバム『ディグ』にサイドマンとして参加。このころから麻薬を使用するようになる。53年、彼を薬物の誘惑から引き離そうと、両親はノース・カロライナにある大学の音楽学部に入学させるが、1年ほどでニューヨークのジャズ・シーンに戻る。
1955年、ピアノ奏者ジョージ・ウォリントンGeorge Wallington(1924―93)のバンドに参加、ついでベース奏者チャールズ・ミンガスのグループに加わる。その合間をぬって初リーダー作『ザ・ジャッキー・マクリーン・クインテット』を録音。ミンガスのグループには56年まで在籍しアルバム『直立猿人』(1956)に参加、その後プレスティッジ・レーベルと契約を結び、代表作『4、5&6』(1956)をはじめ多くのリーダー作およびサイドマンとしての作品を残している。56年ドラム奏者アート・ブレーキー率いるジャズ・メッセンジャーズに参加。58年ブルーノート・レーベルでピアノ奏者ソニー・クラークのサイドマンとしてアルバム『クール・ストラッティン』に参加。59年には同レーベルにリーダー作『ニュー・ソイル』を吹き込むかたわら、ピアノ奏者マル・ウォルドロンのアルバム『レフト・アローン』に客演。60年代に入ると、従来のハード・バップを乗り越えようと、意欲作『レット・フリーダム・リング』(1962)を発表。67年にはフリー・ジャズの旗手、アルト・サックス奏者のオーネット・コールマンとアルバム『ニュー・アンド・オールド・ゴスペル』で共演、ただしこのときコールマンはトランペットを演奏する。
1960年代後半は黒人文化の伝統を継承するための教育活動に従事、レコーディングからは遠ざかる。72年デンマーク、コペンハーゲンのジャズ・クラブで『ライブ・アット・モンマルトル』をライブ・レコーディング、おりからのハード・バップ・リバイバルの風潮に乗って演奏活動を再開する。85年、新生ブルーノート・レーベルの出発を記念するコンサートに参加。90年代に至ってもかつての教え子たちと共演するなど、精力的に活動を続けた。そのほかの代表作に『ジャッキーズ・バッグ』(1959~60)、『デモンズ・ダンス』(1967)がある。マクリーンのアルト・サックス奏法はパーカーの強烈な影響下にスタートしたが、しだいに個性的な音色、フレージングによるオリジナリティを獲得する。ジャズ史的にとりたてて大きな役割を果たしたとはいえないが、ジャズ・ファンの間では根強い人気がある。その理由は、ジャズが要求する、一聴しただけで演奏者が判別できる独自性を彼の演奏が備えているからである。
[後藤雅洋]
マクリーン(Alistair Maclean)
まくりーん
Alistair Maclean
(1922―1987)
イギリスの冒険小説作家(最終国籍はスイス)。スコットランドのグラスゴー生まれ。第二次世界大戦中は海軍に在籍。戦後、高校教師となってから執筆活動に入った。処女作『女王陛下のユリシーズ号』(1955)が大人気となり、続いて『ナバロンの要塞(ようさい)』(1957)は映画化されて大成功を収め、以後も次々と作品を発表した。舞台を広く世界各地にとり、そのなかで展開する人間ドラマは、二転し、三転するといった筋立てが特色。
[梶 龍雄]
『村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』(ハヤカワ文庫)』