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マザラン Mazarin, Jules; Giulio Mazarini

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マザラン
Mazarin, Jules; Giulio Mazarini

[生]1602.7.14. ペシナ,アブルッツェ
[没]1661.3.9. バルドマルヌ,バンセンヌ
イタリア生れのフランスの枢機卿,政治家。スペインのアルカラ大学に留学。 1623年以来ローマ教皇に仕え,その命を受けてカトリック国スペインとフランス間の平和樹立に努力。その間リシュリューと接し信頼を得た。ローマ教皇の特使としてフランス宮廷に滞在 (1634~35) 。 39年国王ルイ 13世に招かれフランスに渡り帰化。 41年枢機卿となる。ルイ 13世死後,王妃アンヌ・ドートリッシュの寵愛を受け,宰相として摂政政治を推進しルイ 14世の政治教育を行なった。 48年ウェストファリア条約を締結し三十年戦争を終らせたが,国内では,集権体制の強化と徴税請負制への依存が高等法院,貴族,民衆の反感を買いフロンドの乱 (48~53) を誘発した。鎮定後帰国し再び実権を握ると,外交に敏腕を発揮し,現実的な親イギリス政策や 58年ドイツ諸邦間の対オーストリアのライン同盟結成,59年スペインとのピレネー講和条約およびルイ 14世とマリア・テレサ (マリ・テレーズ ) の政略結婚,さらにオリーバ条約 (60) ,コペンハーゲン条約 (61) による北方の平和回復仲裁など,のちのルイ 14世のフランス優越時代の基礎を築いた。また,統治中の権力を利用した資産と収集品は巨大で,それを基にマザラン図書館がつくられた。

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百科事典マイペディアの解説

マザラン

フランスの政治家。イタリア出身。教皇特使としてフランス宮廷に接近。1641年枢機卿,1642年リシュリューの死後宰相。1643年ルイ13世の死後は摂政母后アンヌ・ドートリッシュとともに国政の実権を掌握。
→関連項目コルベールボーバンリシュリュールイ[14世]

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世界大百科事典 第2版の解説

マザラン【Jules Mazarin】

1602‐61
フランスの政治家。イタリア生れで,イタリア名はジュリオ・G.マザリーニGiulio G.Mazarini。初め軍人としてローマ教皇に仕えていたが,やがて外交官となる。教皇特使としてフランスに滞在中リシュリューに認められ,1639年フランスに帰化,その協力者となった。41年枢機卿となり,42年リシュリューが死去し,翌年ルイ13世も後を追うと,親密な関係にあった母后摂政アンヌ・ドートリッシュの協力を得て宰相となり,幼い国王ルイ14世のもとで政治の実権を握った。

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大辞林 第三版の解説

マザラン【Jules Mazarin】

1602~1661) フランスの政治家。イタリアから帰化、1642年宰相となる。ウェストファリア条約などにより領地を拡大、フロンドの乱を鎮圧し貴族を抑え、ブルボン王権を強化、絶対王政の基礎を確立。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マザラン
まざらん
Jules Mazarin
(1602―1661)

フランスの宰相、枢機卿(すうききょう)。イタリア中部のペシナに生まれる。父はシチリア系イタリア人で教皇庁官吏。ローマのイエズス会の学院卒業後、スペインのアルカラ大学に学び視野を広げた。1623年教皇軍の隊長に任命されたが、柔軟な頭脳の持ち主で、しかも社交的で雄弁という素質をもっていたので、旧教世界内の協調に腐心していた教皇に認められ、外交官に起用された。1630年のパリ行、1634年の教皇特使としてのパリ赴任とその活動を通じて、リシュリューに外交手腕を認められ、1639年にパリに渡り、同年フランスに帰化した。1641年末、枢機卿となった。ルイ13世の死後、摂政(せっしょう)母后アンヌ・ドートリッシュの信頼を得て、1643年宰相となり、多くの外交問題の解決に手腕を振るったが、とくに三十年戦争の有利な終結に意欲を燃やし、1648年10月、ウェストファリア条約の締結に成功した。
 しかし、マザランに対する旧貴族や高等法院官僚たちの反感も強く、1643年にはマザラン失脚を図る「要人の陰謀」cabale des Importants事件が起こった。また、三十年戦争の戦費調達のため各種の租税が増徴され、その不満がマザランに集中した。ほぼ全国に及んだフロンドの乱(1648~1653)はこのマザランに対する反感を契機としている。とくに高等法院とコンデ親王を中心とする旧貴族の反マザラン感情が強く、「マザリナード」とよばれるマザラン批判の風刺文書や詩歌が流布された。乱の間、マザランは各地を転々として、1653年2月にパリに帰った。摂政母后と親密な関係にあったといわれるマザランは、フロンドの乱後の実権を握り、腹心フーケ、コルベール、ル・テリエを用いて、リシュリュー以来の集権的行政支配機構の整備と財政確立に努めた。対外的には、イギリス共和政府と結び、スペイン軍を撃破して、1659年ピレネー条約を結び、ハプスブルク王家に対するブルボン王家の優位を決定づけ、ルイ14世とスペイン王女との政略結婚を成功させた。また、西ドイツ諸邦間のライン同盟(1658)、バルト海の平和を保障するオリバー条約(1660)を結ばせるなど、外交的力量を十分に発揮してフランス優位の国際秩序をつくりあげた。マザランは、多数の美術品、宝石類、家具類、図書を含む莫大(ばくだい)な遺産を残したが、現在パリにあるマザリーヌ図書館はマザランの私蔵本を基にしてつくられたものである。1661年3月9日バンセンヌで死去。[千葉治男]

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世界大百科事典内のマザランの言及

【パリ】より

…ロアイヤル広場の周辺にも,こうした富裕層が住みつくようになり,この広場やパレ・ロアイヤル界隈(かいわい)のにぎわいは,パリの伝統的手工業が生み出す奢侈品に販路を開くことになった。 5歳で即位したルイ14世の下で,リシュリューの後をうけて宰相となったマザランは,三十年戦争の戦費負担の問題で1648年にパリ高等法院を中心とする法官の反抗に遭い,次いでパリ民衆も重税に反対して反乱を起こした。このフロンドの乱でルイ14世は一時パリを離れたが,翌年パリで妥協が成立した。…

【フロンドの乱】より

…1648年から53年にかけて,パリを中心にほぼ全国的に展開された。17世紀前半,枢機卿リシュリューが進めていた近代的行政国家組織創出の政策はマザランに受け継がれたが,それは長期化する三十年戦争のさなかに進行したため,高等法院を中心拠点とする旧官僚(官職保有者)や伝統的な旧貴族(剣の貴族),そして中央に対する地方勢力と,さらに生存の危機に直面した民衆にいたるまでの社会各層,諸団体の反発を招いた。反発はおのおのの伝統的特権と慣行を維持するための対応であり,それが一挙に表面化したのがフロンドの乱であった。…

【マザリナード】より

…フロンドの乱(1648‐53)の間に宣伝の目的で,フランスで刊行された膨大な数のパンフレットやビラの総称。未成年の国王ルイ14世の下で政治の実権を握っていたイタリア出身の枢機卿J.マザランを批判・誹謗する反マザラン文書が中心であったところから,〈マザリナード〉(マザランもの)の名が生まれたが,王母アンヌ・ドートリッシュやコンデ親王などを中傷したものも多数含まれている。形式としては,正面からの告発文書と並んで,戯れ歌,落首,歌謡,戯曲など多様で,無署名のものが多いが,知られている筆者としては,スカロン,ギー・パタン,ギー・ジョリー,パトリュらが,反マザランの論陣を張っている。…

※「マザラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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